地下水道から地上へと上がり、朽木ルキアが収監されている殲罪宮に向けて、果てがないのではと思えるほどに長く続く階段を駆け上りながら、史帆は目の前を走る少年の背中をじっと見つめた。太陽に照らされて輝く橙色が目を奪うほど鮮やかに美しい。夢の中でもそう思ったことを覚えている。
夢の中で彼が助けようとした少女はやはり、朽木ルキアなのだろう。そしてそのために剣を向けた男も、藍染以外には考えつかない。そうであってほしくはないけれど。
ふと、一護の頭が少しだけ振り向き、「なあ」と史帆に向かって声をかけた。
「そんな見られると気になんだけど……何か俺に聞きたいことでもあんのか?」
「ああ、いや……」
言葉に迷って、史帆は一度視線を下げる。何だろう。何を聞けば良いのだろう。知りたいことだらけだけれど、それを彼らの口から聞けるとは思わない。彼らが今この瀞霊廷内において、むしろ最も無知な存在だということはわかっている。
悩んだ末に、史帆は走りながら、口を開いた。
「黒崎くんさ、藍染惣右介っていう人、知ってる?」
少年は突然の問いかけに困惑したように眉を寄せた。アイゼン、と、初めて知った単語をどこか吟味するように舌に乗せ、首を左右に振る。
「知らねぇな。そいつがどうかしたのか?」
その言葉に不自然さはない。どうやら本当に知らないらしい。
今頃護廷では藍染を殺した犯人として、旅禍である彼らを疑っているはずだ。藍染の生存を知っている(あるいは、信じている)史帆から見ても、彼らが藍染とつながっている可能性はあって、だからこそ尋ねてみたのだが、どうやら杞憂だったらしい。
「知らないなら、いいんだけど」
一護はまだ器用に史帆を振り向いたまま、走るペースを落とさない。その顔は怪訝そうにゆがんでいる。
「……もし、藍染惣右介と戦うことがあったら、気を付けて」
「は?」
「絶対に、殺されないで」
夢で見た光景を脳裏に描きながら、史帆はそう告げた。声が思いのほか固くなった。
これ以上、あの幼馴染に、誰かを傷つけてほしくない。それが史帆の行動理由だ。だからこそ、彼を止めるために、何か一つでもわかることがあるならと、今ここで旅禍とともにいる。正解かどうかなんてわからないし、本当に何かが起きるのかどうかすらわからないけれど。
史帆の様子に何かを察したのか、一護はそれ以上深く問うこともなく「わかった」とだけ答えた。そうして前方に視線を戻したちょうどその直後、階段が途切れた。頂上だ。
「長かった……」
やっと登り切った達成感に、四人は平坦な地面を踏みしめて、一度立ち止まる。開けた空間には柱が点々と立っているだけで、ぐるりと見回しても誰一人見当たらなかった。霊圧も感じられない。それを確かめてから、四人は再び走り出した。殲罪宮まではまだ遠い。
「黒崎くん」
「なんだよ」
「話変わるんだけど、旅禍ってあなた以外にも来てるんだよね」
「ああ。ここにいねぇけど、あと三人いる」
「一緒にいないのはどうして?」
単純な疑問をぶつけると、一護はああと頷きながら空を仰いだ。
「入るときにはぐれたんだ。大砲で撃たれて空から入ろうとしたんだけど、なんか空に変な防壁みたいなの張ってるだろ、ここ。それのせいで散り散りになっちまった」
「遮魂膜か。にしても、さらっと言ってるけどすさまじい侵入の仕方だね……」
そういえば、市丸が旅禍を取り逃したと自ら言っていた。それと関係があるのかもしれないと思いながら、史帆はもう一つ、気になっていた疑問を投げかけた。
「そもそも、人間のあなたたちがどうやって尸魂界に?」
「それは、――」
瞬間、少年が言葉を切り、目を見開いた。前触れなく四人が呑まれたのは、身体を押しつぶすような容赦ない圧力。上から巨岩が振ってきて、自らの身体を潰し殺したのではないかとさえ思うほどの。
一護も、花太郎も岩鷲も、史帆でさえ、突如としてあたりを襲った強大な霊圧に身体が硬直した。肌がびりびりとしびれ、力を入れても、足一歩踏み出すのにさえ信じられないほどの労力が要った。
「なんだよ、この霊圧……!」
焦燥、驚愕、恐怖。あらゆる感情をぐちゃぐちゃに詰め込んだような少年の声に、史帆はごくりと唾を飲んだ。この霊圧は、知っている。おそらく、護廷十三隊の人間であれば、誰もが。
「黒崎くん、急いで、見つかる前に――」
史帆がそれを言い終えるより、先。一護の前に、一人の大男が立っていた。
あまりの霊圧に耐えきれずに、花太郎が倒れ、岩鷲が膝をつく。慌てて二人のそばに駆け寄って、史帆は背に汗が伝うのを感じながら唇を噛んだ。結界を張るか。しかしここで結界を張れば、史帆の霊圧を誰かが見つけるかもしれない。もうそんなことを心配している場合ではないかもしれないが。
「あー、史帆ちゃんだ」
ふと響いた、場に似つかわしくない楽しげな声に、史帆はぎょっとして振り返った。大男の肩に掴まって、その可憐な瞳を史帆に向け、桃色の髪の少女は嬉しそうに手を振っている。
そして、その少女の声でやっと史帆のことを見つけたように、大男の視線が、史帆に留められた。
「てめえ、四谷か。霊圧消してたからわかんなかったぜ」
「覚えていただいているなんて光栄です、更木隊長」
史帆の言葉を鼻で笑い、男は、更木剣八は続ける。
「何のんきに旅禍と遊んでんだ? てめえの幼馴染が殺されたんだぜ。こんなことしてていいのかよ」
一護が驚いた表情で、剣八から史帆へと視線を移す。それを視界の端にとらえながらも、史帆はまっすぐ剣八を見ていた。答えるつもりはなかった。そもそも史帆自身答えを知らないのだから、答えられるはずもない。
口を開かない史帆に、剣八は肩をすくめる。史帆が何を思って動いているかなど、彼にとってはどうせ興味のないことだろう。その合間、はやる呼吸の隙間をやっと見つけたみたいに、一護が史帆の名を呼んだ。
「四谷さん、悪い。アイツら連れて先行ってくれ」
「でも、黒崎くん……」
その先を口にするのは躊躇われた。けれど、ここに一人彼が残れば、万に一つも生き残れる可能性はないだろう。更木剣八は化け物だ。護廷十三隊の死神全員が、そのことを知っている。
しかし、史帆の言葉をさえぎるようにもう一度強く、四谷さん、と一護が呼んだ。ほとんど悲鳴のようだった。
「頼む」
緊張に張り詰めたその声音を数秒かみしめる。これ以上史帆と話す気はないらしく、彼の意識はもうすべて、目の前に対峙する剣八へと向けられていた。
わかったよ。心の中で誰にともなくそうつぶやいて、史帆は立ち上がる。何とか動けそうな岩鷲に花太郎を背負ってもらい、二人とともに踵を返して、その場から離脱した。
まっすぐな子だ。心の底から、羨ましさにも似た感情を覚えながら、一護の霊圧が徐々に離れていく感覚に、小さく息を吐く。
あそこまでまっすぐ、恐れを知らずにぶつかっていけるなら。もし、かつての自分がそうであったなら、何か変わっただろうか。そんなどうしようもないたらればを言ったって仕方はないのに、それでも史帆は、考えずにはいられない。
黒崎一護。そのまっすぐさが、本当に稀有な才能であり強さだと、あなたは知っているのだろうか。
どうか、もう一度、生きた彼に会えたらいいのだが。巨大な霊圧が衝突し合うのを背に感じながら、史帆は殲罪宮へと駆ける足に力を込めた。