ほとんど迷路に近いほど複雑に張り巡らされた下水道網を把握しているのが、四番隊だけだというのはよく知られた話だ。史帆とて当然そのことは知っていたが、まあなんとかなるでしょ、程度の軽い気持ちで足を踏み入れてしまったのは、自身の並外れた霊圧の感知力の高さを過信したからである。向かうべき先が霊圧で感知できるのだから、方向を見失うことはない。多少道が複雑だったとしても。
結果から言うと、それは確かに過信であって、精巧な迷路に見事に迷い込んだ地下水道初心者である史帆は、予想よりもはるかに多くの時間と体力を失うことになっていた。目的の霊圧は一つの場所に腰を据えているようで、こちらから遠ざかろうとしている気配は感じない。しかし行く先々多くの場所で行き止まりにぶつかり、そのたびに元の道に戻ってまたやり直し、を繰り返しているうちに、史帆が下水道網に下りてからすでに一刻が経過しようとしていた。霊圧を完全に消す鬼道を張り続けていることもあって、体力がだいぶ消耗している。
霊圧を消し、一方的に探知を繰り返し、そうして少しずつ少しずつ、三歩近づいて二歩下がるのを繰り返して、さらに半刻ほどが経ったとき、ようやく史帆はそこへたどり着いた。
「……あんた、誰だ」
突然現れた史帆をじろりと睨む、人相の悪い少年。史帆と同じ黒い死覇装を身につけ、背丈ほどもある大太刀を背負っている。
その少年の、つんと立った短い髪の毛を見て、あ、と史帆は思った。橙色。
それは、夢の中で、刀を手に双極の丘を駆けた、あの男の後姿と同じだった。
少年の斜め後ろにも、二人男がいる。死覇装ではなく民族服のようなものを着たがたいの良い男も、死覇装を着た小柄で気弱そうな男も、ただ固唾を飲んで史帆と少年のやりとりを見守っていた。ずいぶんと大きい少年の霊圧がそばにあるせいで呑まれてしまって、彼らの霊圧までは史帆は探知できていなかったが、よくよく考えればこの水道を使っている時点で四番隊の助力があるのは自明だ。気弱そうな黒髪の死神が、おそらくは四番隊隊士なのだろう。
「急にごめんなさい。私、八番隊第三席の四谷史帆っていいます。あなたが旅禍の人だよね」
「……ああ、黒崎一護だ」
黒崎くん、と一度呼んでみせると、少年が頷く。史帆が名乗ったから名乗り返したのだろう。素直な子だ。
続いて、顔を見合わせたわずかな逡巡ののち、後ろの二人も名を名乗った。志波岩鷲と山田花太郎。志波、という苗字を史帆は知っていたが、今はそこを深く考える時間はないので後回しとして、よろしくお願いします、と頭だけ下げてから、また一護に顔を向ける。
「あの、突然押しかけて不躾なのはわかってるんだけど、お願いがあって。あなたたちは、朽木ルキアさんを助けに来たんですよね」
「……ああ」
「それなら、しばらく私も一緒に行かせてもらえませんか」
男らは驚くというよりも、訝しむように眉根を寄せた。突然現れて突然名乗って、その後の言葉がこれだ。疑わない方がおかしいというのは史帆も重々理解している。
「なんでだよ。あんたもルキアを助けたいのか?」
「それは、……少し違うかも。とにかく、その朽木さんの処刑を止めなくちゃ、いけない気がして」
あなたたちと一緒にいれば、何か新しいことがわかるかもしれないから、とは言わなかった。今護廷十三隊を取り巻く状況の奇妙さを、彼らはおそらく知らないだろう。
曖昧な返答に、男たちは揃って首を傾げる。もっと細かいことを話したって別に良いのだが、何せ状況が複雑だ。何から話せばいいだろうかと史帆が考えあぐねていると、後ろで黙って成り行きを見ていた小柄な死神の男が、あの、とおそるおそる口を開いた。
「四谷史帆さんって、僕、お名前はお聞きしたことがあります。席次は三席だけど、隊長資格を持っている方だって」
隊長だと、と、岩鷲が驚いたような声を上げる。大げさな反応に、史帆はばつが悪くて肩をすくめた。
かつて史帆が、藍染と五番隊隊長の座をめぐり隊首試験で争ったときの話は、護廷の中でも一部武勇伝として語られているらしい。知ってはいたが、それにしてもずいぶんと大仰な言い方をする。
「隊首試験には落ちたんだ。その話は恥ずかしいから、あまりしないでくれると嬉しいな……」
「えっ、あ、すみません!」
小動物のように縮こまり、慌てて謝罪をした彼に苦笑する。
「隊長格ではないけど、でもそれなりには力になれると思う。これでも百年以上護廷にいるから」
一護はしばらく黙って史帆の目をじっと見つめていたが、やがて「わかった」と硬い声で告げた。
「嘘ついてる感じでもねぇし、別に断る理由もねぇ。行こうぜ」
どうやらひとまずの信用は得られたようだ。史帆はこっそり胸を撫でおろし、頷いた。
三人はちょうど出発するところだったらしい。史帆を加えて、一同は花太郎の案内に従い、地下水道をまた歩き出した。追いつく前に出発されていたらたどり着けなかっただろう。本当に良かった、と安堵している史帆に、その横を歩きながら、一護がふと問いかけた。
「あんた、ええと、……四谷、さん」
「ん?」
「あんた、見たところルキアと知り合いってわけでもねえんだろ。なんで処刑を止めてえんだ?」
ああ、と史帆はつぶやく。史帆自身まだ完全には理解できていないところだが、しかし一護の問いはもっともすぎる疑問だった。そうだね、と間を埋めるようにつぶやき、史帆はゆっくり、自分でも確認するかのように、口を開く。
「……私、幼馴染がいるの」
今朝史帆の前で死んでいた、おそらくはどこかで生きているのだろう男の顔を思い浮かべる。たとえ紛いものだとわかっていても、彼の死体は凄惨で、いつか彼が本当にああして死ぬときを残酷なまでに鮮明に描いているようだった。それが史帆には衝撃であり、恐怖でもあった。
彼が死んだことがではない。彼がいつか、そうやって死ぬかもしれないという未来を克明に突きつけられたことが、恐ろしいのだ。
「彼が、もしかしたら朽木さんの処刑に関わってるかもしれなくて。それが、悪いことかもしれないから、止めようと思ってるだけ」
「……かもしれない、ばっかだな」
一護の言葉に思わず笑った。その通りだ。
「本当にね。何も教えてくれないから、あの人」
史帆の返答に、一護は何も言わなかった。一度会話が途切れ、沈黙とともに一同は足を進める。薄暗い地下水道を見回しながら、史帆は一つ息を吐いた。
これが正しいことなのかはわからないし、最短の道かどうかもわからないけれど、とにかく最優先は、朽木ルキアの処刑を止めることだ。藍染を探し出して真相を聞くのは、その後でいい。きっと。