痛ましい悲鳴が耳を劈いた。闇の底に沈んでいた意識が強制的に引き戻される。
ぼやけながらも光を取り戻した視界が、徐々に世界を認識する。床に倒れているのだと、肌に触れる木の感覚でわかった。ゆがむ視界に目元を抑えながら、ふらつく身体を酷使してなんとか上半身を起こし、史帆は目の前に広がる光景を見た。何かを見上げて呆然と立つ、少女の背中。
そして、その彼女の奥、そびえたつ東大聖壁に磔にされた、血まみれの幼馴染の姿を。
息が止まった。声は出なかった。あまりにも残酷で。
何者かに用意されたこの状況が、恐ろしいほどにむごかった。今史帆の目の前で言葉を失っているのは、護廷十三隊の中で、おそらく最も藍染を慕っていたであろう少女なのだ。
床を蹴る足音が振動となって伝わる。史帆の後ろで複数の気配が慌ただしく止まった。藍染隊長、とこぼれるようにつぶやき、信じられないものを見るように目を見開く友人。
雛森が、震えながら手を伸ばし、前へ一歩、一歩と歩む。しかし、壁高くに刀一本で磔にされた彼女の敬愛する男に、その手が届くことはない。
崩れ落ちながら泣き叫ぶ雛森の発狂に、史帆は呆然と、耳をふさぐこともできなかった。
なぜ。一体何が、どうして。
困惑する脳が、理解を拒むように、考えることをしようとしない。それほど、視界に映る幼馴染の死体が、史帆にとってはショックだった。
誰一人、その場から動くことも、口を開くこともできないまま、数分が経った頃だろうか。また、背後から近づいてくる一つの霊圧に、史帆はゆっくりと振り返る。後ろにいた乱菊らも、それを見て、つられたように振り向いた。
「なんや、こんな朝っぱらから、揃いも揃って」
場の空気など微塵も鑑みない、軽い声色。やってきた男は、市丸は、その場の面々を一瞥し、東大聖壁に掲げられた藍染惣右介の死体を見ても顔色を変えず、信じがたいほどあっさりと「おや」と言った。
「これは一大事やね」
狐のような面に張りつけられた表情は、いっそほほえみと呼ぶべきものですらあった。
硬直する一同の間を、朝の風が吹き抜ける。心を壊した雛森の霊圧が、徐々に怒りで震え、膨張していくのに気付いて、史帆はやっと我に返った。
「――お前か!」
「雛森副隊長!」
制止の叫びもむなしく、駆け出した雛森が市丸に斬りかかる。市丸は底知れない笑みを浮かべたまま、避けようとはしない。
斬られる。そう思ったとき、刃と刃のぶつかる甲高い音が鳴った。目を向ければ、吉良が、市丸と雛森の間に入り、雛森の刀を自分の刀で受け止めているのだ。
「僕は三番隊副隊長だ。どんな理由があれ、隊長に刃を向けることは僕が許さない」
「……っ、どいて、どいてよ!」
涙を流しながらわめく雛森に、なだめるように吉良が首を横に振る。
その様子を見て、満足げに笑みを深めた市丸は、無言で踵を返し、足を踏み出した。待って、と史帆がその背中に呼びかけようとすると同時に、雛森が高らかに叫ぶ。
「弾け、飛梅!」
雛森の斬魄刀の能力は、その場にいる全員が知っている。まずい、と思うより先に火花が飛び、その場が爆発音とともに煙に包まれた。吹き飛ばされないように体勢を維持するのにやっとで、顔を上げることすらままならない。
完全に我を失った雛森に、吉良も頭に血が上ったのか、彼の斬魄刀を解放する。どうしたらいいのかわからず、ただ焦燥ばかりを募らせる史帆を置き去りにして、対峙した二人の副隊長が斬り合おうと走り出す。
いったい何が起きている。誰がこんなことを仕組んだのか。
困惑しながらふと顔を上げた先、背を向けた市丸がほんの少しだけ振り向いて、史帆を見ていた。その顔には先ほどまでの不気味さはない。何の感情も浮かべず、ただまっすぐに史帆を見つめているのだ。
「市丸隊長……?」
かすかにこぼれたそのつぶやきはしかし、突如響いた打突音でかき消された。
音につられて、乱闘の中心に視線を向ける。どこからか現れた日番谷が雛森と吉良の間に割って入り、二人の剣を受け止めていた。
「動くなよ。……捕らえろ、二人ともだ」
「日番谷くん!」
「頭冷やせ雛森、こんなことしてる場合かよ!?」
乱菊に羽交い絞めにされながらも抵抗の声を上げた雛森を、日番谷が激しく叱責する。
「藍染隊長をあそこから下ろしてやるのが、先なんじゃねぇのか」
その言葉に、雛森は今にも泣きそうな顔で眉根を寄せ、口をつぐんだ。吉良と雛森それぞれに拘置を命じ、その場から連行させた後で、日番谷はじっと、何かを考え込むように目を細めて、磔にされた藍染の死体を見上げた。
そして、まだ立ち上がれないでいた史帆に視線を向け、重苦しく口を開く。
「お前が最初に見つけたのか?」
「……いえ、」
少し考えながら、なるべく声を震わせないように、史帆は答える。
「雛森副隊長の叫び声で、目が覚めて……それまでは、ここで、気絶していたみたいです」
「お前が気絶だと? 一体何があった」
わずかに驚いたように瞠目した日番谷の問いに、史帆は目を逸らす。まさか、今あそこで死んでいる男と話していたとは言えまい。
「……わかりません」
日番谷が訝しげに目を細める。その視線には困惑と嫌疑が滲んでいた。
「朝、目が覚めてしまって、散歩がてらここに来たんです。そうしたら、……突然後ろから、何者かに攻撃されて……」
「気が付いたら、藍染が死んでいたと?」
ややあって、頷いた。日番谷の視線は変わらず疑いを持って史帆に向けられていたが、そこで、会話の行き先を静観していた市丸がのらりくらりと歩み寄っては口をはさんだ。
「災難やったなぁ、史帆さん。日番谷隊長も、すんません。うちのもんまで手間かけさせてもうて」
「……市丸、てめぇ、雛森を殺そうとしたな」
ひそめられた低い声。激しいプレッシャーに、史帆は背に汗が伝うのを感じた。しかし、市丸の笑みは崩れない。
「一つ言っておくぜ、市丸。雛森に血を流させたら、俺がお前を殺す」
「そら怖い。悪いやつが近づかんよう、きちんと見張っとかなあきませんなぁ」
唾を飲み込む音が、嫌に大きく聞こえた。二人の間に散る火花が目に見えるようだった。
敵だ。この二人は何の疑いもなく、互いを敵だと認め合っている。
二人の会話が途切れたとき、ちょうどやってきた隊士たちに、藍染をおろすようにと指示を出してから、日番谷はあっさりとその場から姿を消す。市丸にも史帆にも、それ以上言葉をかけることはなかった。先ほど史帆に向けられた嫌疑は、市丸によって上塗りされたのかもしれない。
日番谷が消えたその場所を数秒じっと見つめてから、市丸は史帆を見遣った。
「大丈夫?」
「え、……はい」
「びっくりしたやろ。ごめんな」
彼が自分を気に掛ける理由がわからず、史帆は困惑した。しかしそんな史帆をよそに、市丸はあっけらかんとした様子で史帆に手を差し出す。戸惑いながらもその手を取って、立ち上がる。まだ身体はふらついたが、立っていられないほどではない。それを確認して市丸は手を離し、「ゆっくり休み」とだけ告げて、踵を返した。慌ててその背中に名を呼ぶと、ぴたりと足が止まる。しかし、史帆が二の句を告げるより先に、口を開いたのは市丸だった。
「同情しとるんよ、これでも」
「え?」
「かわいそうな史帆さん。せいぜい頑張りや」
冷たい声音だった。その冷たさに怯んだ一瞬、先ほどの日番谷のように、市丸も瞬歩で姿を消した。
そうして一人取り残されて、史帆はぼんやりと、藍染の死体を見上げる。彼自身の斬魄刀によって腹を貫かれ、そのまま壁に串刺しにされた幼馴染。帯のように壁を伝って流れた、おびただしいほどの血。
――すまない、史帆。一度、お別れだ。
あの言葉は本心だったと思う。何の根拠もない勘だったが、不思議と史帆はそれが確信にも似た何かに感じられた。
一度、と彼は言った。ならば、帰ってくるはずだ。だからこそ、そんな言い方をしたのだ。そして、藍染がおぞましいほど精巧な偽物にすり替わった百年前の夜を、史帆は今でも鮮明に覚えている。
この死体も、偽物だったとしたら?
不穏に進行する朽木ルキアの処刑。旅禍の侵入。それらといったい何の関係があるというのだろうか。藍染が死を装ったのだとしたら、そこには何の意味があるのだろうか。
考えなければ。考えなければ。
人よりも多くを知っている。だから史帆には、それを止める責務があった。
何より、これ以上あの男に、誰かを傷つけさせるわけにはいかない。
一つ、ざわめく心臓を落ち着けるように、大きな息を吐く。そして史帆は藍染の死体に背を向け、歩き出した。
今ここにいたって仕方がない。何かが起こるそのときまで、少しだけでも、きっと猶予はあるはずだ。
そして、そのときとはおそらく、朽木ルキアの処刑が実行されるときなのだろう。相変わらず根拠はないが、それ以外に今考えられるものはない。
瀞霊廷内に全力で霊圧探知をかけて、史帆は"彼ら"を探す。徒労に終わるかもしれないが、今はとにかく、知らなければならない。今ここで、一体何が起きているのか。今ここで、進行しつつある何かに関わっているすべての者が、一体何を考えているのかを。
少し離れたところに、史帆は、それを見つけた。うまく隠されてはいるが、不安定で大きな霊圧。感じたことのないそれが旅禍のものであることに賭けて、史帆は、その霊圧がとどまる場所、地下水道へ向かった。