翌日。まもなく太陽が登ろうとする頃合いの早朝に、史帆はなぜか目が醒めた。どちらかというと朝に弱い史帆はいつだって始業時間ぎりぎりに起きるのが常だったのだが、不思議なほど明瞭に覚醒した意識は、まだ薄暗い部屋の中、あたたかい布団に包まれている史帆に眠気を微塵も与え戻さない。
念のため時計を確認して、史帆は戸惑いながらも、どうしようかと考えた。いくらなんでももてあましそうな時間だった。とはいえもう一度眠ることも、この覚醒状態ではできそうにない。二度寝が大好きな史帆にとってはそれは一年に一度あるかないかの珍しい事態だったのだが。
散歩でもするかと思い至って、いそいそと寝巻から死覇装に着替える。戦時特令下なので、念のため斬魄刀も腰に差し、ふらりと部屋を出た。外はまだ夜の端の暗さで、時折吹く風はひやりと肌寒い。
特にあてもなくぶらつこうと思っていたのだが、ふと、隊士寮を出たところで、東大聖壁のあたりにある二つの霊圧が史帆の気に留まった。どちらもかなり抑えられているが、そのうち一つがあの幼馴染の霊圧だとすぐに理解して、史帆は一瞬の逡巡の後、その方向へ足を踏み出した。しかし、念のためにと史帆が自分の霊圧を消した瞬間、まるで真似をするかのように、二つの霊圧も消えてしまい、史帆はまた足を止める。
なんだ?
史帆の霊圧が動いたのを見て慌てて消したのか、偶然か、それとも二つの霊圧そのものが史帆の勘違いか。
いずれにせよ、この冴えた頭では、今更部屋に戻って夢に落ちる選択肢は存在しない。
ばれないように瞬歩は使わず、史帆は早足で隊舎を抜けた。そのまま東大聖壁へ向かう。道中もやはり、先ほどの霊圧は戻ってこない。早朝の護廷十三隊はあまりにも静かで、本当に全部、史帆の勘違いだったのではないかと思わせるほどだった。
東大聖壁には誰もいなかった。霊圧も、史帆のできる限り細かに探知をかけても反応はない。こんな早朝ではそれも当然のことなのだが、しかし気のせいだと看過するには厳しい、妙な緊張感を感じるのも事実だった。
何かがいる気がする。
しばらくあたりを警戒したまま、史帆はその場で動くことなく気配を探った。ゆっくりと周囲を見回し、そしてそびえ立つ白壁に目を向ける。何もない。誰もいない。
本当に気のせいだったのだろうか?
その思考がほんのわずかに脳をよぎったその瞬間、史帆はその場から前に踏み出すように飛びのき、即座にたった今自分がいた方向を振り向いて、腰の刀に手をかけた。それは、ほとんど反射反応だった。本能が身体を動かしたのだ。何があったか理解はしていなくとも。
史帆がその本能でもって逃げ出した場所には、襲撃先を失った霊圧がぼんやりと漂っている。
「へえ。大したものだね」
そして、そこに手をかざした体勢で、わずかな感嘆らしき響きを込めて、つぶやく男。
いつでも抜けるように、刀から手を離さないまま、史帆は最大の警戒心を持って、目の前の男を睨む。
「避けられるとは思わなかったな。今のは割と本気だったんだが」
そう言って、藍染惣右介は肩をすくめた。
「……百年前と同じ手なんて、芸がないよ」
「何の話かな」
白伏だ。消えていく霊圧の残滓を見ながら、史帆は頭の片隅でその単語に思い至る。平子真子たちが消えたあの夜、藍染は同じ手で史帆を眠らせた。
相変わらずわざとらしく白を切る彼に、溜息がこぼれた。
「どうしたの、こんな朝早くに」
「目が覚めてしまったんだよ。ほら、昨日、阿散井くんがやられただろう。元上司としては心が痛くてね、ゆっくり眠る気にはなれないんだ」
「そう。優しいんだね」
「どうも。君こそどうしたんだい。どちらかというと朝は弱い方だろう」
「……目が覚めちゃって」
藍染のとってつけた理由と同じそれに、藍染がわずかに口角を上げた。君だって同じじゃないか、という揶揄が透けて見える。しかしそれ以上つっかかってはこなかったので、史帆は話題を変えて、一つ、気になっていたことを尋ねた。
「市丸隊長は?」
藍染の目がほんの少しだけ見開かれる。先ほど藍染とともにあった霊圧が誰なのかまでは特定できなかった史帆にとって、それは鎌をかけた質問だったが、彼の反応を見る限り、その仮説はどうやら正しかったらしい。
「どうして彼の名前が出る?」
「だって、さっき一緒にいたじゃない」
「……君の霊圧の感知能力はやはり異常だな」
「褒めてくれてありがとう」
史帆の言葉に苦笑しながら、藍染は特にためらう様子もなく答えた。
「彼ならもう帰ったよ。さっきまでここで話していたんだけど」
「話……何を?」
「旅禍の話さ。彼が旅禍を取り逃したのは知っているだろう」
嘘ではないのだろう。しかしそれがすべてではないはずだ。それだけならこんな朝早くから、隊舎から離れたこんな場所で、わざわざ隊長格二名が会って話す理由はない。
藍染は穏やかな笑みを絶やさぬまま、史帆をじっと見つめている。その笑みは、あの百年前の三席の死体を見下ろしていたそれとどこか似た冷たさを持っていた。
やがて、少しの沈黙の後、藍染がぽつりと史帆の名を呼ぶ。少しずつ白み始めた空を背に、その声だけはまだ夜に取り残されたかのように冷たい。
「君は、変わらないな」
「……変わってほしかった?」
「まさか」
不安げな史帆の返答にまたほほえんで、藍染が史帆にそっと手を伸ばした。先ほど白伏を受けそうになったばかりだというのに、その手をなぜか拒むことができず、史帆はされるがまま、藍染の胸に抱き寄せられる。背に回った男の腕が、冷えた史帆の身体をいたわるようにあたたかい。
「どうしたの、惣右介」
「すまない、史帆」
死覇装の黒色ばかりが目に映り、謝罪する藍染がどんな表情をしているのか、史帆には見ることができない。
「一度、お別れだ」
無感情な声。その言葉に、心臓が、強く握りしめられたような気がした。それと同時に、自分の身体を抱きしめる腕に、力がこもる。
「君が、僕を選んでくれることを願っているよ」
「そ、」
惣右介、と。彼の名を呼ぼうとして、ふと、身体から力が抜けていく感覚に、声を失った。
まただ。また、置いていかれてしまう。
待って、と心が叫ぶが、声は出ない。手を離され行き場を見失った迷子のような不安さ。しかし、まるでそれをあやすように、藍染は史帆の意識が暗転する最後まで、その体を強く抱きしめていた。