尸魂界に旅禍が入り込んだという通達がされたのは、それからまもなくだった。
隊長格にはもしかしたら何かしらより詳細な命令が下ったのかもしれないが、三席である史帆のもとにはそういったものは与えられず、史帆はただ珍しい事態に首を傾げながらも、基本的にはいつもと変わらぬ日常を過ごすだけだった。
百年も同じ立場にいれば、もはや仕事をこなすことは以前よりもずっと容易だ。その日も史帆は残っていた仕事をすべて手早く片づけて、余った業務時間で書庫へと向かった。
調べたいものは、過去の判例集。朽木ルキアの処刑の一件が、どうもあのときの夢と重なって、澱のように心の底に沈殿しているのが妙に居心地悪かったのだ。
過去の極刑にはどのような例があるのか。その程度の調べもののつもりだったが、判例集は一隊士には公開されない極秘資料で、史帆とて本来は見る権利がない。だから自身の霊圧を消して、史帆はこっそり書庫に身をひそめて、古びた書類を漁っていた。
しかし、ほとんど行き場を失った資料の保管庫に過ぎないその書庫はひどく散らかっていて、半刻ほど探しても史帆が見たい情報は見つからない。
ここにはないのだろうか。やはり面倒くさがらずに、入廊申請をして大霊書回廊で探すべきかもしれない。隊長格でない史帆にその許可が下りるかはわからないが。
さてどうするか。頭を抱えた史帆は、ふと廊下から二つの霊圧が近づいてくることに気付く。念のため本棚の裏、積み上げられた書類と備品の山の中に身を屈め隠れたところで、扉の前で霊圧が立ち止まる。首筋に汗が伝った。
軋みながら開く扉の音。聞き慣れた男の声がした。
「君とこうして話すのも、ずいぶん久しぶりな気がするね」
――惣右介?
その声の後、数秒の間のあとに、別の声が「はい」と答えた。聞き覚えのある声だが、誰だかは思い出せない。覗き込んで誰だか確認しようにも、向こうに見つかっては元も子もないので、史帆はただ記憶を探ることしかできなかった。八番隊の隊士ではない。だとしたら、他隊の副隊長か、あるいは隊長のはずだ。しかし藍染の口調からして、隊長ではなさそうにも思える。
手を抜かずにはじめから曲光を使っておけば良かった、と悔みながらも、続けられる会話に耳を傾けた。
「君を剣八のところに取られてからだから、何年ぶりだろう」
「……あの、話って何でしょうか」
あ、と史帆は思う。藍染の隊から更木剣八の隊へと移隊した隊士が、昔いたはずだ。藍染から直接聞いたことがある。名前は、確か。
「阿散井くん。君は朽木ルキアさんとは親しいんだったね」
わずかに息を飲む気配。
「単刀直入に聞こう。君の目から見て、彼女は死ぬべきか?」
その言葉に、史帆もわずかに動揺して息を飲んだ。まさか、藍染も自分と同じように、朽木ルキアの処刑に疑問を抱いているのだろうか。別に彼女の処刑に違和感を持つこと自体はおかしなことではないと思うけれど、藍染の性格で、ただ純粋にそれを問うとは思えない。
「いえ、あの、……おっしゃってる意味が」
困惑する阿散井をさえぎるかのように、「おかしいと思わないか」と藍染が続ける。
「彼女の罪状は人間への力の譲渡と滞在超過。重罪とはいえ、極刑になるほどの罪ではない。それに加えて、三十五日から二十五日への猶予期間の短縮、隊長格以外への双極の使用。僕にはこれが、何者かの意思によって動かされているとしか思えない」
きっぱりと言い切る藍染の声は硬い。目を見開き、しばらく呆然としていた阿散井が、やがて何かを言おうとしたその瞬間、外からけたたましい鐘の音が鳴り響いた。二人の会話に集中していた史帆も、思わずびくりと肩を跳ねさせた。反射的に声が出なくて幸いだった。
緊急隊首会の通達だ。各隊長は至急集合するように、との伝令に、藍染が小さく溜息を吐いたのを聞く。
「緊急隊首会……!? また、なんで……」
「おそらく、例の旅禍の件だろう。……突然すまなかったね、阿散井君。君も執務に戻りなさい」
落ち着いた指示に、一拍の間の後で、はいという返事。そのまま阿散井の霊圧が部屋の外へ出ていき、遠ざかっていくのを確認してから、史帆は音にならないように小さく息を吐いた。
音は立てていない。姿は見えていない。霊圧も消した。見つかってはいないだろう。このまま藍染が部屋を出ていくまで待って、――そう思ったときだ。
「盗み聞きは良くないな、史帆」
「うわっ!?」
真後ろから笑いとともにささやかれた声に、史帆は今度こそしっかり短く悲鳴をあげた。振り向きながら飛びのいて、男と少しだけ距離をとる。そこまで広くないこの書庫では気休めに過ぎないが。
大げさに驚いた史帆を見て、藍染は楽しそうに微笑んでいる。
「悪いね。驚かすつもりはなかったんだけど」
「気付いてたの……」
「途中からね。それまではずいぶん上手に隠れていたから、気が付かなかったよ」
「いつから?」
「君が僕の言葉に動揺した瞬間から」
朽木ルキアの処刑に藍染が疑念を抱いていると聞いたときだ。たしかに史帆は動揺した。自分では気付かなかったが、かすかに霊圧が揺れてしまったのかもしれない。
ぐ、と口惜しげに言葉を飲み込んだ史帆をくすくすと笑いながら、藍染は言葉を続けた。
「僕が彼女の処刑に疑問を持つことが、そんなにもおかしいかい?」
「おかしいでしょ、だって……」
ほう、とつぶやくように息をこぼして、目を細める。
「だって、なんだい?」
「……」
「後学のために教えてほしいな。これでも仲間思いで通ってるはずなんだが」
白々しくも言い放つ。こういう言い方をされるたび、史帆は、白々しさを擬人化したらそれは藍染の姿をしているのではないだろうかとさえ考える。
双極の丘。今にも殺されそうな少女。その前で刀を振り下ろそうとする男。そしてそこに割って入る、橙色の髪の少年。
ふと史帆は、夢に出てきたあの少女こそが、朽木ルキアなのではないだろうかと思った。
黙ったまま答えない史帆を藍染はしばらくじっと待っていたが、やがて史帆に答える気がないと思ったのか、小さく溜息を吐いた。そして無言で踵を返し、書庫を出ていこうとする。
その間際、扉に手をかけたところで、突然思い出したかのように、「そうそう」とつぶやいた。
「尸魂界に旅禍が入り込んだのは知っているね」
「……それは、知ってるけど」
「せっかくだから教えておこう。彼らの目的は、朽木ルキアの救出だ」
意図が読めない言葉に史帆が首を傾げるのを見もせず、藍染はただそれだけ言い残して部屋を去った。古びた資料に囲まれた部屋で、一人残された史帆は、その背中を呆然と見送るだけだ。
――惣右介。あなた一体、何を企んでるの。
百年前の苦悩を思い出して、史帆は眉をひそめる。彼が深く関与し、おそらくは彼自身の手によって多くの人を傷つけた、あの百年前の一連を。
たとえすべてを知れたわけではなくても、史帆が、史帆だけがあの夜に知ったことは確かにあった。それを京楽やほかの隊士に告発しなかったのは、史帆の甘さでありわがままだ。
だからこそ、もしももう一度彼がその手で誰かを傷つけようとしたら、どんな手を使ってでも止めるのだと、止めなければいけないと、そう思っていた。
大きく息を吐いて、本に囲まれた中から抜け出し、部屋を出る。藍染の様子からして、朽木ルキアの処刑に何か裏があるのは間違いないだろう。それがわかれば、探していた資料などもう何の意味もなかった。