草一つない殺風景な丘に、身を震わすほどの威厳をまとって、一対の矛と盾が建っている。
砂を巻き上げる風が肌を叩くように打つ。喉を通る乾いた空気が、死の気配を明瞭に感じさせる。
そこには一人の少女と、一人の男がいた。どちらも、その場にいる彼女には気付かないまま向かい合っている。がくりとうなだれる少女に、男が刀を抜き、高々と振り上げて――。
やめろ、と、雄たけびのように誰かが叫んだ。その声が、頭上を通って、二人の元へと駆ける。切り裂かれた空気に一瞬遅れて突風が吹きすさんだ。砂にくらむ視界で、それでも何とか、声の主を見る。
輝くような橙色が、太陽に照らされて揺れていた。
目を開けると、世界の明るさに視界が順応するにしたがって、その輪郭が徐々にはっきりとかたどられていった。自分の顔を覗き込むように見下ろす壮年の顔。手入れされているんだかいないんだかわからないひげに、穏やかに垂れた細い瞳。ぱちぱちとまばたきを繰り返す史帆に彼は笑って、そのままひらりと距離を取った。それがなければ直後、目の前の男が誰だかを理解して飛び起きた史帆と激しく額をぶつけることになっていただろう。
「あはは、元気だねえ。おはよう、史帆ちゃん」
「お、おはようございます、京楽隊長……」
叱られる覚悟で挨拶を返しながら、史帆は念のため、あたりを見回して今自分がいる場所を確認した。隊首室だ。ソファを一つ占領して眠っていたらしく、身体には丁寧にもブランケットがかけられていた。なぜこんな場所で眠っているのかは記憶がない。
「あの、私、なぜここに?」
「さあ、わかんないな。僕がここに来たらもう君がそこで寝てたから」
絶句した。無礼にもほどがある。しかし、肩を揺らして笑う京楽はどうやら心から面白がっているようで、部下の非礼を叱責しようとする様子はなさそうだった。そのまま向かいのソファに座り頬杖をつくので、史帆は首をすくめながらも、いそいそと起き上がって座りなおす。
「あの、すみません……」
「構わないよ。それより、体調悪かったりするの? 大丈夫?」
「いえ、あの、ただの寝不足だと思います」
「確かに目の下真っ黒だね。昨晩は何を?」
「新しい小説を、一気読みして……気が付いたら朝でした」
「はは、史帆ちゃんらしいねえ」
「すみません、ほんと……」
「だから構わないって。何ならもっと寝ててもいいよ。僕また出なきゃいけないんだけど、たぶん十番隊がこないだの件の報告書届けにもうすぐ来ると思うから、いてもらえるとむしろ助かる。お茶とか飲みたければ好きにしていいから」
そう言って京楽が立ち上がるので、史帆も立ち上がって「わかりました」と小さく頭を下げた。その頭をぽんぽんと叩いて、京楽は部屋を後にする。
隊首室に一人残るなんて珍しい経験だ。そもそも部屋のあるじである隊長がいない状態で隊首室に入ることなど本来は許されない。落ち着かなさを感じながらも、しかし京楽の許可に甘えて史帆はのんびりと一人分のお茶を淹れ、またソファに座りなおした。徹夜明けの身体には、あたたかい緑茶が驚くほど沁みる。
窓の外では、鮮やかな緑色が風に吹かれ、荒々しく揺れている。それをぼんやり見つめながら、史帆はふと、先ほどの夢を思い出した。
痛いほど砂を打ち付ける風と、乾いた大地。あの荘厳と建っていた矛と盾は、双極だろう。その前で、向かい合った一人の少女を殺そうとした男は、――藍染、だったのだろうか。
隊長格八名が一晩のうちに亡くなった百年前から、当然ながら護廷十三隊はその多くが入れ替わった。五番隊は平子が消えた後、副隊長であった藍染が隊長へと昇進し、当時五番隊の三席だった市丸ギンは藍染の副隊長を務めたのち、数十年後に三番隊の隊長へと昇進した。
百年前の事件は徐々に風化し、今やそれを思い出す者は多くない。現場から戻った唯一の当事者として、突然隊長を亡くした悲劇の副隊長として、当時は周囲から哀れみ心配され、そのたびにつらそうに目を伏せた藍染のことを、今やそうして慰める者はいないだろう。時間が記憶を薄れさせ、傷口をかさぶたで覆っては見えなくさせた。
それでも、傷痕は確かに残り続ける。何もなかったことにはならない。
それを最も忘れてはいけないのが、史帆だった。そう自負していた。
ふと、隊首室の扉が軽く叩かれる。茫洋としていた思考が現実に引き戻されると同時に、廊下から元気な声が聞こえた。
「十番隊の松本です。書類お届けに来ましたー」
「乱菊? どうぞ」
扉の向こうでわずかに驚く気配。扉を開けて、部屋の中でまったりお茶を飲んでいる史帆に、やってきた松本が目をぱちぱちとまばたかせた。
「史帆さんじゃないですか。何してるんです?」
「乱菊を待ってたんだよ」
「あら、本当に? 嬉しい。このままさぼって甘いものでも食べに行きます?」
「それは魅力的な誘いだね」
はは、と笑いながら書類を受け取る。内容は特に見ていなかったが、しかし受け取る際に目に入った一つの言葉に、ふと手が止まった。
――双極?
「それ、知ってました? 現世駐在の任務中に規律違反した隊士がいたとかで」
史帆が書類の内容に目を留めたのを見て、乱菊は口を開く。規律違反、と繰り返して、史帆は眉をひそめた。
「極刑になるほどの規律違反なんてあるの……」
「不思議なんですよね。聞いたところによると、違反は現世滞在超過と、一般人への死神の力の譲渡、って話なんですけど」
そう言って、乱菊が首を傾げた。訝しむ気持ちは史帆にもよくわかる。重罪とはいえ、極刑になるような罪だろうか。百年前、あの事件の主犯とされた隊長ですら極刑には処されなかったのに。
「力譲渡した人間がよほどまずい相手とかだったんですかね」
「うーん、どうなんだろうね。この極囚の人って、もう捕まってるの?」
「ええ。六番隊がこの前現世で捕縛したみたいですよ」
「朽木隊長か。……てか、あれ、待って、この名前、」
自分がふと口にした名前に、史帆は慌てて再度書類に目を落とす。極囚の名前は、朽木ルキア。
「朽木隊長の妹さんです」
「うっそ……」
史帆は唖然とした。隊長格の妹であることもそうだし、そもそも四代貴族のご息女を極刑だなんて、ずいぶんと過激な判断だ。四十六室は一体何を考えているのだろう。
ごお、と風の音がして、窓が軋む。窓の外を見遣れば、ずいぶんと風が強くなっていた。
これじゃ外にお茶行くのも億劫ですね、と、乱菊が肩をすくめた。