目の前に立つ男のふるまいと言動を、完璧に真似てみせるのは奇妙な感覚だった。自分が模しているその張本人が今、判決を下す審判のような目で自分を見ている。鏡映し、と思うにはおこがましいだろうが、鏡の前で一人舞踏の練習を積む自分を、鏡の奥からもう一人の自分に見られているような、感じたことのない羞恥があった。
やがて、一通りの模倣を見終えた後で、男は、藍染は、満足げに薄くほほえむ。
「ありがとう。なかなか良い出来だ」
「はい」
「とはいえ、自分で判断を下すにも難しい部分があるね。どうだったかな、ギン、要」
藍染が振り向き、斜め後ろに立っている二人に声をかける。背丈の小さな銀髪の少年と、特徴的な髪型をした盲目の男。藍染には裏の顔にも多くの部下がいるが、その中でも最も藍染の近くに位置する、別格の部下だ。
「むっちゃ似とります」
「これに加えて鏡花水月をかければ、誰一人見抜くことはできないかと」
それぞれの答えに、藍染は一拍間をおいてから、ふうんと言った。
「誰一人、か」
そしてまた、茶色い双眸がすっと細められて、遠くを見る。視線は男の方に向いているが、藍染が見ている何かは、そこにはない。
「二人だ」
林の中で密談を交わす三人と一人。藍染が見ている男の背中の先には、五番隊の隊舎がある。
「二人、見抜く可能性のある者がいる」
「ふたり、ですか」
「平子真子。そして、四谷史帆」
男は唾をのんだ。どちらも知っている名前だ。平子真子は藍染が所属する五番隊の隊長であり、四谷史帆は藍染の幼馴染として、護廷十三隊でもその席次にしては知名度が高い。
「ただし、そうなる可能性は限りなく低い。特に前者については、本人がそうしたからね」
頷くことはせず、ただ黙って、藍染の言葉に耳を傾ける。藍染の思考は複雑で、その全貌を理解することが許される者は少数だった。末端たる自分が、すべてを知る必要はない。
「だから、いいかい。君が気を付けるべきはひとつだけだ」
それは神の進言のように、不思議な力を持って鼓膜を揺らす。
「四谷史帆に、不用意に会わないこと」
ふいに我に返ると、藍染の顔が目の前にあって、男は思わず悲鳴をあげそうになる。端正な顔立ちが、ぞっとするほどうつくしく笑みを浮かべ、言い聞かせるようにひとことひとことをなぞって告げる。
「会ってしまっては、変に避けるのもおかしいからね。とはいえ長く言葉を交わせば、彼女はすぐに君に違和感を抱くだろう。だから、会わないのが一番良い」
君にとってもね、と付け足された言葉に、男はうなづく。握った拳はいつの間にかずいぶんと手汗に濡れていた。
「もし、ばれたら、」
そうつぶやいて、はっとする。踵を返した藍染が、そのつぶやきを拾って足を止め、首だけでわずかに振り向いた。鋭く流された視線に身体が震えるが、こぼれてしまった言葉は今更回収できない。
「なんだい?」
「……もし、見抜かれたとしても、殺してしまえば」
女の死神としての実力が、その席次から思われるものよりはるかに高いことは、藍染から聞いていた。だから、百パーセント殺せるかと言われると、男は自信を持つことはできないけれど、それでも、可能性はあると自負していた。
ふと、視界の端に移った少年が、呆れたように肩をすくめているのが見えた。何が、と、首を傾げた次の瞬間、急激に地面に押し付けられるような圧力を感じて、呼吸が止まる。立っていられずに膝をつき、散る酸素を必死にかき集めた。地面も抉られてしまうのではと思うほどの重苦しさ。
息も絶え絶えに顔をあげた先で、藍染は変わらず笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には明らかな怒気が宿っていた。それを見つけて、やっと自分が地雷を踏んだことを知る。
「面白いことを言うね」
声とも息ともつかない何かが口から断続的に零れ落ちる。意識が飛びそうだった。
永遠とも思えるほど長い時間あえぎ、苦しみ、涙さえ滲んできたとき、やっと、空気が元の軽さに戻る。先ほどの地獄が夢だったのではと思うほど、あっさりと。
咳き込む男をよそに、藍染はまた踵を返して、隊舎とは反対方向へと歩き出す。
「見抜かれないようにするのが君の仕事だ。見抜かれたときの想定は必要ない。そうだろう?」
「も、うしわけ、……あり、ませ、ん」
「頼んだよ。これでも僕は、楽しみにしているんだ」
藍染の声は楽しげだ。藍染のあとに続いて、二人の側近も男を放って歩き出す。やっと満足に取り込めるようになった酸素をゆっくりと大きく吸い込みながら、男は三人が瞬歩で消えた後も、何もないその空間を、恐怖にとらわれた瞳で見つめていた。