暗い海の底を揺蕩っている。体中につけられた見えないおもりが、上へあがることを許さない。
吐き出されるあぶくをぼんやりと見つめながら、ふと、誰かが遠くで叫んでいる気がした。
――平子隊長?
目を開けても、どこまでも真っ暗な闇が続いている。しかし、声が聞こえた方を振り向いたとき、そこには確かに見知った者たちがいた。
平子隊長。矢胴丸副隊長。つい数日前まで、穏やかな日常をともにしていた、平和に言葉を交わしていた仲間たちが、その顔を異形に変貌させ、力なく倒れていた。
――平子隊長! 矢胴丸副隊長!
必死に呼ぶが、声は出なかった。いくら前に進もうと足を踏み出しても、倒れ伏す彼らとの距離が縮まらない。どうして。どうして、手を伸ばしても届かないのだ。
知っていたくせに。どこからか、誰かがそうささやく。
――いつかこうなるかもしれないと、知っていたくせに。
――今更助けたいと願うなら、なぜ彼を止めなかった?
違う、という言葉が、自然と溢れようとしては寸前で引っかかってまた飲み込まれる。哄笑を忍ばせたささやきを振り払うように、進まない足で前へ駆けて、伸ばす指先一本まで力を込めた。
そうやって伸ばした腕に、後ろから、誰かの腕がそっと重なる。押さえつけるように、包むように、手のひらの先まで体温が重なった。
安心しなさい。耳元で誰かがつぶやく。
――僕だけは、君を肯定しよう。
――君は何も悪くないよ。
瞬間、肺が一気に水に沈められたように、呼吸が止まる。血を吐くように口から逃げていくあぶくが、次から次へと弾けて死んでいく。それと一緒に、意識が遠のき、視界がにじむ。
途切れる意識の隙間、倒れた仲間たちの元に、黒い外套を着た誰かが駆け寄るのが見えた。
×
逆流した息の苦しさで目が覚めた。げほげほ、と激しくせき込んで、半ば涙目になりながらも、見慣れた木の天井、嗅ぎなれた畳の匂いに、今いる場所が自室であると気が付く。
そして、傍らに座っていた男が、読んでいた本から顔をあげ、おはよう、と微笑んだ。
「体調はどうかな」
「そう、すけ」
それは藍染惣右介だった。まぎれもない。本物の。
黒い死覇装も、わずかに癖のかかった茶髪も、眼鏡の奥の端正な双眸も、何もかもが同じ。ただその左腕には、副官章はつけられていなかった。
藍染は手にしていた文庫本をたたんで膝元に置き、床に伏せている史帆の額に手を伸ばす。反射的に逃げようとしたものの、身体が鉛のように重くて、動かなかった。そっと前髪を避けて指先で額に触り、熱はないね、などとつぶやくので、史帆はあまりの白々しさにいっそ一種の感動さえ覚えた。
なぜか起き上がれないほど弱っているのだが、それでも目だけは何かを訴えたのだろう。額から手を離しながら、藍染が苦笑する。
「そう怖い顔をするな。……そうだね、何から聞きたい?」
「平子隊長、と、矢胴丸副隊長、は?」
間髪入れずにそう尋ねた史帆に、藍染は一度少しだけ目を細め、ふむ、とつぶやいた。
「経緯を説明すると長いから、端的に言うけれど、亡くなられたよ。その二人含めて、隊長格八名が、亡くなった」
あまりにも容赦なく告げられる現実に、めまいがしそうだった。その一方で、どこか離れたところから、もう一人の自分が冷めた目で、自分を見ているような気がする。
知っていたくせに。夢の中で、史帆を責めた声が脳裏に反響する。
目の前の男が危険だと、本当はわかっていたくせに。
「あの夜からすでに三日経っている。その間君はずっと眠ってたんだ。強力な白伏をかけられたみたいだから、今日一日もまだ横になっていた方がいいだろうね」
紡がれる声は穏やかで、障子からこぼれる柔らかな夕射しに似ていた。
「ほかに聞きたいことは?」
「……何も」
「おや。いいのかい」
「どうせ、うそつくくせに」
それは本心だった。藍染は史帆にすべてを語らないだろう。だって、史帆はまだ生きている。これからも、おそらくは生き続ける。目の前で肩をすくめる幼馴染から、自分への殺意を史帆は感じなかった。
「そう断言されるのも悲しいけど……まあ、君がいいならいいよ」
肩を揺らして笑う藍染に、史帆は目を閉じる。
何が起きたのか、まだわからない。回復したら、ひとつひとつ、ゆっくりと現実を飲み込まなければいけない。その現実が、自分の望まないものだったとしても、飲み込んで、進むしかない。自分は生かされたのだ。きっとすべての糸を引いていたのだろう、この幼馴染に。
ああでも、そうだ。その問いなら、答えてくれるだろうか。
「……惣右介、やっぱり、ひとつだけ」
「うん、いいよ」
あっさり前言を撤回したのに、彼はそれを優しく許容した。なんだい、と落ち着いた声で、先を促す。その優しさに甘えて、史帆は尋ねた。
「どうして、殺さなかったの」
その問いに、藍染は少しだけ沈黙したが、やがて何かを言うより先に、史帆の頬をそっと撫でた。視界に藍染の影が落ちる。
「そんなの、決まってるだろう」
まるで、秘密話をする子どものように声をひそめて、彼は告げる。
「君に生きていてほしいからだよ」
「……最低」
「なんとでも」
近づく男の顔に、史帆は自然と目を閉じる。重ねられた唇のあたたかさをぼんやりと感じながら、いつか来てしまうだろう未来のことを、頭の片隅に考えた。
どうか、些細な毎日をともに生きていたかった。憎まれ口を叩きながら、一緒に甘味処に行って、ときには喧嘩して、きっと周りの冷やかしにいつまでも腹を立て、あなたはそんな私をからかって笑い続けるのだろう。
そんなくだらない日常が、ずっと続いてほしかった。いつか、あなた以外を選ばなくてはいけなくなる、その瞬間まで。
だからせめてそのときまでは、かりそめの幸福であったとしてもそれを錯覚させてほしいと。心から、そう願うのだ。
(過去編 終)