京楽と別れた後、史帆は言われた通り自室に帰ろうと思っていた。けれど、どこかで霊圧が激しく現れては消えてを繰り返しているような気がして、――どこかと探っても、気のせいなのか結界が張られているのか、場所は特定できなくて、――そうやってぼんやり歩いているうちに、彼女はいつの間にか、そこにいた。あの、五番隊舎の庭に。
浦原と出会い、三席が殺された、この庭に。
史帆が来たのを目ざとく見つけたソウスケが、茂みを揺らして飛び出してくる。足元にすり寄るかわいらしい猫をそっと抱き上げて、史帆は空を見上げた。暗闇に散らされた白い綿のような雲の合間に、細く浮かぶ三日月が、美しかった。
腕の中で喉を鳴らすソウスケを撫でながら、史帆はぼんやりと、この一か月余りのことを思い返した。幼馴染の提言によって五番隊から移籍になり、関わりの深かった友人が不可解な死を遂げ、幼馴染にはすべてを知った顔で知らないふりをされ、新しい上司には注意深く疑われた。
苦しかった。今やっと、そう思う。
何より、藍染を信じられないことが、苦しかった。
手をゆるめると、ソウスケが不満げに鳴いてみせるので、史帆は苦笑して、またその首をもむように撫でる。やわらかな毛並みが手のひらにふれ、猫は気持ちよさそうに目を細めた。
そんな折、ふと、後ろで足音がして、振り向く。縁側に、一人の男が立っていた。
それは、史帆が先ほどから会いたいと思っていた男だった。
「あなた……」
書類の山を抱えた藍染は、史帆の言葉にゆるく微笑む。縁側に立ったまま、庭にいる史帆を見下ろして、「やあ、史帆」という。
「……こんばんは」
「こんばんは。もう夜も遅いけど、何か用だったかい?」
「ううん、ちょっと……ソウスケの様子を見に」
腕の中で猫が鳴く。藍染が目を細める。
「君がそんなことを言うなんて珍しいね。別段、取り立てて事もないけれど。どうかしたのかい」
男の言葉に、史帆はただ黙ってほほえんだ。
そうしなければ、涙が出そうだった。
「京楽隊長には会いました?」
「ん? そうだね、先ほど遠くにお見かけはしたよ」
「そう」
京楽隊長。史帆は内心で呼びかける。本当はきっと、この場からすぐにでも立ち去って、史帆が今知った可能性を彼に知らせるべきだ。しかし、それが正しい行動だとわかっていてもそうしないのは、史帆の甘さだった。この世界で、きっと最も史帆の心のやわらかいところに巣食った大切な幼馴染に対する、どうしようもない甘さであり、甘えだった。
「……史帆、どうかしたのかい。さっきから何か変だよ」
今目の前に立つ男がおそろしくて、今すぐにでも逃げ出したいと、史帆は思う。
しかし、それよりもっとおそろしいのは、大切な幼馴染が誰かを傷つけようとしているかもしれないという事実だった。
「……上手、だよ」
「上手?」
うん、と頷く。わずかに、猫を抱く手が震えた。
「惣右介に、そっくり」
怪訝な表情から一点、男の目が大きく見開かれる。直後、その目から光が消え、明らかに別人の色を灯して、史帆を鋭く射貫く。腕の中の猫を少しだけ高い位置に抱きなおして、藍染惣右介のふりをする男に見せつけるようにすると、さらに訝しげにその目が細められた。
「この子の名前、知ってる?」
「……」
「ソウスケっていうんだよ」
厳しい表情のまま口を開かない男に、史帆はつとめて淡々と、言葉をぶつける。
一秒一秒、この次の瞬間に、命が亡くなる覚悟をしながら。
「知らなかったんでしょう」
――その猫は?
――この庭に住んでる子だけど
――僕の勘違いでなければ、ソウスケと呼んでいなかったかな
「だって、あそこにいたのは、あなたじゃなかったもの」
隠すことなく向けられる敵意にも、怯むことはない。
依然として口を開かない誰かの目をまっすぐ見つめて、史帆は、尋ねた。
「教えて。……惣右介は、どこにいるの」
答えを聞くことは怖かった。わざわざ彼が何らかの方法でここまで精巧な影武者を用意したのだから、その居場所など、けして望ましい場所ではないはずだ。
じとり、蒸し暑さに、握ったこぶしに汗がにじむ。
ずいぶんと長い時間、二人は沈黙し、対峙していた。やがて、男が口を開こうとした、その瞬間。
男の目がまた見開かれた。その視線は、史帆に向けられてはいない。
史帆の、後ろに。
「――褒めるべきだろうね、史帆」
振り向くより先に身体に回された腕に、口を覆う手のひら。史帆はあまりの衝撃と恐怖に、心臓が凍ったかのような感覚さえ覚えた。気配など微塵も感じなかったのに。
急激に暗闇に包まれていく意識の中、最後の力をふり絞って後ろの男を見る。けれど、誰かなんて、見なくたってわかっていた。
「やはり君は、僕をよく理解している」
男の声はひどく嬉しそうで、視界に映った鳶色の瞳は歓喜に揺れていた。
史帆の意識は、そこでぶつりと途切れた。