よく知った霊圧が急に消えた。それに気付いた瞬間、史帆は布団を跳ねのけ、部屋を飛び出した。五番隊隊舎の方だ。そこで何かが起きて、彼の霊圧が消えた気がした。
寝巻代わりの浴衣に薄い羽織だけ肩からかけて、息が上がるのも構わず、全力の瞬歩で駆ける。屋根伝いに飛びながらも霊圧の探知を続けると、五番隊隊舎の庭に、複数の霊圧が集まっているのを見つけた。庭だ。浦原と出会った、あの庭だ。
そうして自室を出てから早数分で目的地へとたどり着いたとき、すでにそこには死覇装を身に着けた隊士が何人か集まっていた。その中に見慣れた茶色い髪を見つけ、史帆は着地と同時にその名を呼ぶ。
「藍染、副隊長」
寝起きの声は、焦燥に満ちて、掠れていた。
名を呼ばれた男は、その声に特に驚く様子もなく、ゆっくりと振り返る。端正な顔にはいつもの穏やかなほほえみはない。
合わさった視線の先、眼鏡の奥で細められた瞳の冷たさに、ぞっとした。
「史帆か」
ひそめられた声で、藍染はそっと呼ぶ。応えようとして、しかし先に目に入った"それ"に、史帆は言葉を失ったまま、しゃべることができなかった。藍染の足元に倒れた一人の隊士。庭石の隙間を埋めるように、腹からおびただしい量の血を流して。
うつ伏せに倒れているその顔は見えない。しかし、血に濡れたその髪はたしかに、つい数時間前まで言葉を交わしていた、あの三席のものだった。
「、っ、治療を」
歩み寄ろうとした身体を抱きとめるようにさえぎられ、史帆は言葉を切る。震える瞳で見上げる史帆を見ず、藍染は倒れた三席に目を向けながら、つぶやいた。
「もう死んでいるよ」
夜の暗闇のようにおそろしい響きをしたその声に、史帆はめまいがした。どうして。
どうしてそんなにも冷酷に、仲間の死を受け止められるのか。
藍染副隊長、と、遠慮がちな声が、後ろの隊士からかけられる。史帆も見覚えのある、五番隊の隊士たちだ。
「なぜ、彼女をお呼びに……彼女はもう、五番隊では」
ひどく言いづらそうに、そこまで言って口をつぐむ。呼んだわけではないよ、と、藍染の無機質な声が、ためらうことなく答えた。
「彼の霊圧が消えたことに気付いて、自身の判断でここに来たんだ。そうだろう、史帆?」
その通りだ。しかし、かろうじて聞こえた幼馴染の声に、混乱する脳はそれどころではなく、史帆は反応を返すことができない。ただ、縫い留められたかのように、死んだ三席から目を離すことができなかった。
そんな史帆を見下ろしながら、藍染が一人目を細める。少しだけ首を振り向き、その場にいた二人の隊士に目を向けて、「平子隊長を呼んできてくれるかい」と言った。彼と、その腕に抱きとめられたまま震える史帆を見て、思うところを察したのだろう、隊士たちは素直に頷いて瞬歩でその場を去る。
そうして、その場には二人だけが残された。
しばらく、史帆も藍染も、どちらも口を開かないまま、沈黙が続いた。史帆はただ三席の死体をじっと見つめ、痛みに耐えるかのように時折眉をひそめた。
ずっと、心の中で、どうして、と繰り返すばかりだ。その先に続く問いを言葉にすれば、自分が泣いてしまいそうだった。
「誰が、殺したの」
震える唇の隙間から、なんとか押し出すようにつむぐ。ともに吐き出された息が、夜の冷たさで白く濁る。
惣右介、と、祈るように名前を呼ぶ。どこかの茂みが揺れるような葉音がした。
「史帆、部屋に戻りなさい」
まわしていた腕から力を抜いて、藍染が史帆の身体を解放する。肩からずり落ちている羽織を直してやりながら、史帆の頭を軽く撫でる。
「でも、惣右介、……」
声に乗せようとして、しかし最後にふんぎりがつかず、史帆は一番聞きたいことをどうしても聞けなかった。まさか。
――あなたが殺したの?
そんなはずはないと思いたい。しかしこの状況において、藍染の表情はすべてを知っていた者のそれなのだ。
たとえ、藍染惣右介の仮面を素顔と思い込んだ、史帆以外の隊士たちが、それを読み取れなかったとしても。
藍染の手が史帆の頬を撫でる。月明りに照らされて影になった幼馴染の、端正な顔に張り付いたほほえみが、背筋が凍りそうなほどうつくしくて、絶句した。
「君が知るには、まだ早い」
ひときわ強く風が吹き抜けた。硬直した史帆の後ろで、空間が揺れる気配。
藍染がそちらに視線を遣ったので、ようやくおぞましいほどの圧力から解放された史帆も、つられて後ろを振り向いた。やってきた彼を見て、史帆はなぜだかわからないけれど、涙が出そうだった。
「スマン、おそなったな」
死覇装に隊長羽織までしっかり羽織って、平子真子はそこに立っていた。長い金髪を夜闇に輝かせて、眠たげに頭をかきながら、ひらひらと地面を歩く。
藍染と史帆を、そして倒れる三席を順に見つめ、数秒考えるように目を伏せてから、平子はまた顔をあげた。その目が向く先は、藍染だ。惣右介、と固い声が、見た目だけは親しげに、下の名前を呼び捨てる。呼ばれた男は、平素と変わらない慇懃さでもって、はいと返事した。
「自分が最初に見つけたんか?」
「はい」
「史帆ちゃんは」
「僕が呼んだわけではありません。今、部屋に帰るように言っていたところです」
平子の目が、藍染と並んで立つ史帆を捉える。緊張感のある視線に史帆が唾を飲むと、やがて平子が小さく息を吐いて、肩をすくめた。
「せやな。史帆ちゃんは部屋戻り」
「平子、隊長……」
「何かわかったら伝えたる。しゃあから今日はもう戻って、休み」
それ以上は反論を許さない声音だった。元上司の命令に頷くしかない史帆を、藍染はじっと黙って見下ろしている。
「……出過ぎた真似をして、すみません。失礼します」
そう言い残して、史帆は地を蹴り、また屋根伝いに瞬歩で部屋へ向かった。離脱する間際、藍染と平子が自分に向けていた冷たい視線に、解放された後でどっと汗が吹き出す。
どうして。どうして。
何がどうなっているのかわからない。藍染が彼を殺したのだろうか。
平子が自分に向けていた視線は、すでに五番隊を去った史帆が、でしゃばったことに対する苛立ちだろうか。あの、疑いに満ちた視線が、苛立ちという言葉で片づけられるか?
部屋に戻り、慌てて飛び出したままの布団もそのままに、史帆は壁にもたれて座りこむ。藍染の、あの完璧すぎるほど整ったほほえみが、瞼の裏に張り付いて、消えなかった。