初日に京楽に対して感じた違和感をよそに、八番隊での日々は取り立ててこともなく進んでいった。
京楽もあの日以来、史帆に探るような視線を向けたことはない。少なくとも、史帆が認識する限りでは。
隊風も確かに、初日に京楽の言った通りそれほど厳格なものではなく、そういった意味では多少五番隊と似通ったところもあって、史帆は案外あっさりと八番隊に馴染んでいった。突然他隊からやってきた史帆に、最初は距離を図りかねていた席官たちも、彼女のさっぱりとした雰囲気と仕事をあっさりさばいていくその優秀さを見て、まもなく彼女を三席として頼りにするようになっていた。
そうして平和に、八番隊での日常が始まってから数日である。
「失礼します。五番隊第三席の――です」
控えめに執務室の扉がノックされた後で、聞き覚えのある声がした。元四席、史帆が移隊してからは三席に昇進した彼である。任務に出て席を外しているリサに代わって「どうぞ」と言うと、おそるおそる戸が引かれ、彼が顔を出した。
「五番隊から書類を届けにまいりました」
「今副隊長がいないから私が受け取りますね。ありがとう」
席を立って扉に向かい、数日ぶりに見る彼から書類を受け取る。せっかくなので少し話をと彼が言うので、史帆は他の席官に十分だけ外すと伝え、彼とともに廊下に出た。毎日顔を合わせていたから、数日会っていないだけで、ずいぶんと久しぶりのように感じられた。彼が今やかつての自分の立場なのだと思うと、仲の良い友人としてどこかこそばゆく、嬉しい気持ちになる。
窓の外では容赦なく、雨が土を打っていた。その音を聞きながら、二人は壁に沿って向かい合う。
「八番隊、どうですか? 史帆さんならどこでもうまくやっていけるんでしょうけど」
「買いかぶりすぎだって。でも、隊の雰囲気は落ち着いてるし、みんな良い人だから、楽しくやってるよ」
「それは良かったです」
彼は心から安心したようにほほえんだ。
「五番隊は沈んでますよ、あなたがいなくなって」
肩をすくめてみせる彼に、史帆はあふれそうになる笑いをすんでのところで飲み込んだ。史帆の送別会と題して開かれたあの飲み会で、史帆がいなくなるのは嫌だ、と酒に酔っては泣き叫んでいた彼の姿を思い出してしまったのだ。
「沈んでるって、言いすぎでしょ」
「いやあ、きついです。さみしいし、仕事も回らなくて。藍染副隊長がばりばりに処理してってくれてはいるんですけど」
うなだれる三席に、史帆は何と言えば良いのかわからず、そうなんだ、とだけ返した。自分一人が抜けたことによる損失がそんなに大きいとは思えないのだが、三席の顔がずいぶん疲れた様子であるのを見る限り、きっと彼の言うことは事実なのだろう。
「仕事が回らないなんて。何か大きな案件が降ってきたとか、そういうのがあるの?」
そう尋ねると、彼は驚いたように目を見開いた。史帆さん、知らないんですか、と言うのだが、何についての"知らない"であるかすらわからないので、史帆は首を傾げることしかできない。
ぽかんとする史帆に、彼はまだ、史帆が知らないことを信じられない、というような表情で、告げた。
「最近流魂街の方で、変死事件が多発してるんです」
「な、」
何それ、と言おうとした瞬間、史帆はその単語が記憶に引っかかるのを感じて言葉を止めた。
流魂街、変死事件。引継ぎと仕事の説明でばたばたしていたから流していたが、昨日見た書類の中に、そんな言葉の並んだ報告書があったような気がする。
「その件の調査で五番隊からも一部席官が出払ってて、本当に人手が足りないんですよね。史帆さんが移籍になったこともあるのに、そのうえさらに、ですから」
なるほど、と史帆は頷いた。八番隊にその件が回ってきていないのは、史帆が異動してきたとはいえ、まだ席官に空席が多いからだろう。
多忙で疲弊しているのか、暗い顔で溜息を吐く三席に、史帆が声をかけようとしたそのとき、「何しとんねん、そないなとこで」と、怒ったように高い女性の声がした。顔をあげると、外出していたはずのリサが、腰に手を当ててきっと三席を睨んでいる。
「矢胴丸副隊長、おかえりなさい。お疲れ様でした」
「おん。なんやそいつは?」
じろりと向けられた鋭い視線に、三席の肩が大きく跳ねる。彼がしどろもどろになりながら自己紹介する間も、その視線はやわらがない。蛇に睨まれた蛙、というのは今の彼のような状況を指した言葉なのだろう。
書類をお渡しにまいりまして、と恐る恐る言った三席に、リサは顎を引き、目をさらにきつく細めた。
「ふん、それはご苦労さん。用が終わったんなら鼻の下伸ばしてへんでさっさと自分の隊戻り」
すでにリサの性格をある程度知った史帆からすれば、その言葉はいつも通りの彼女であって、怒っているだとか苛ついているだとかそういうことではないのだとわかるのだが、初対面である三席にはそうは見えなかっただろう。他隊の副隊長に無礼があってはいけないと、これ以上その心を逆撫でしないようにと、慌てて「失礼しました」と頭を下げる。
「じゃあ史帆さん、あなたもご無理のないように。いつでも五番隊に遊びに来てくださいね。藍染副隊長も平子隊長もさみしそうな顔してますから」
「それは是非見たいから今度お邪魔するね。また」
肩を揺らして笑う史帆に、三席はまた嬉しそうに笑い返し、踵を返す。足早に自身の隊舎へと帰る背中が見えなくなるまで見送ったところで、後ろでまたリサが「ふん」と鼻を鳴らした。
「どうかしたんですか? 副隊長」
「ずいぶん仲ええんやな、五番隊は」
史帆は一瞬迷って、どうでしょう、とあいまいに笑った。隊長と副隊長が、絶対に一定以上の距離に近づかないことを、他の隊士は知らないのだろう。五番隊ですらそれを明確に認識している隊士は多くないのだから、当たり前だ。
そんな史帆に、リサは変わらず冷たい視線を向け続けたが、やがて機嫌悪そうに顔をそらし、執務室へと入る。その後に続いて、史帆も自席へと戻った。
副隊長席について頬杖をつきながら、史帆が先ほど三席から受け取った書類に目を通すリサを横目に、史帆はふと、自分も蛙だったのかもしれないな、と、そう思った。
五番隊第三席の霊圧が消失したのは、その夜のことだった。