軽く握った拳で四回隊首室の扉を叩くと、中から「どうぞー」と声が聞こえる。
「失礼します、京楽隊長」
「うん。……ああ、君か!」
机に向かって何かを読んでいたらしい京楽が顔を上げ、入室した史帆を見て目を輝かせた。机の端に置かれた徳利と猪口は見て見ぬふりをして、史帆は小さくお辞儀する。
「本日より五番隊からこちらに移籍致しました、四谷史帆です。よろしくお願いいたします」
「そんなに堅苦しくなくていいよ。僕は京楽春水。君のことも噂でよく聞いてるよ。よろしくね、史帆ちゃん」
また噂か、とこっそり肩を竦めながら、史帆は「はい」と返事する。
「仕事の説明とかは後でリサちゃん……うちの副隊長ね。彼女がしてくれるから、そうだなあ、とりあえずうちの隊舎でも見て回る?」
史帆は少し迷ってから、頷いた。隊長にわざわざ時間を取らせるのも申し訳ないのだが、折角の申し出なのでありがたく受けることにする。史帆もあまり地図の把握が得意な部類ではない。
よし決まり、と嬉しそうに立ち上がり、京楽は読んでいた書類らしきものをぽんと放り出した。仕事にひと段落つける口実がほしかったのかもな、と史帆はひそかに思う。
八番隊隊舎は五番隊のそれとそれほど大きな相違点はなかった。隊首室があって、執務室があって、稽古場、休憩所、書庫など、必要な部屋は勿論一通り揃っている。八番隊隊舎にあって五番隊隊舎になかったものといえば、せいぜい食料保管庫に積まれた大量の酒瓶くらいだろう。しかしそれでも、漂う雰囲気だけは明確に違っていて、感傷的になるほどではないにせよ、少しだけ寂しい気もしたのは事実だった。
「ここが執務室だね。五番隊と多分変わらないけど、席官の子たちが使う。史帆ちゃんもここを使うことになるかな」
頷く史帆を横目に、京楽は部屋の扉をあける。中には二名の隊士がいたが、二人とも京楽を見て立ち上がり、お疲れ様です、と礼をした。それを片手でいなしながら、京楽はぐるりと部屋を見回す。
「リサちゃんは?」
「先ほど七番隊に呼ばれて、出ておられます」
「あ、そうなの。そしたら、戻ってきたら隊首室に来るように言ってもらえるかな」
元気よく返事をする隊士ににこりと笑い、ああそうだ、と史帆を指し示す。
「こちらが新しい三席の子。みんな仲良くね」
急な紹介に慌てて名前を名乗り礼をすると、隊士たちもそれぞれ名を名乗り、丁寧に頭を下げた。彼らはそれぞれ五席と六席だという。いわく、先日の戦で亡くなったのが三席、四席、九席の三名で、四席と九席はまだ欠番という形になっているらしい。かなりの入れ替えになりバタバタしているようで、彼らの机には書類が山積みだった。明日からあれを自分もやるのだと思うと、少しだけ史帆は気が重くなる。
挨拶を済ませて執務室を後にし、隊舎全体をぐるりと回って、二人はまた隊首室の前に戻った。そこで足を止めて、京楽が問う。
「大体こんな感じかな。何か気になることある?」
「いえ、特には」
「だよね。じゃあまあ、リサちゃん待とっか」
そう言って京楽が隊首室に入る。史帆も促され、おそるおそる部屋へ入った。隊首室というのは一般隊士が立ち入る場所ではないから、緊張してしまう。まして相手は百年以上隊長を務めているベテランだ。
「座ってどうぞ。今お茶淹れるね」
「いえ、そんな! 私が淹れますから、京楽隊長は座っててください」
「そう? 悪いねえ」
史帆が慌てて立ち上がると、京楽もあっさり食い下がり、ソファに腰掛けた。流石に部下の立場で隊長にお茶を淹れさせるわけにはいかない。慣れた手つきで二杯お茶を淹れ、京楽の前に一つ差し出すと、どうもありがとう、と低くやわらかい声で、お礼を言われる。頷いて、自分用の湯呑みを持ち、向かいのソファに腰掛けた。
「やっぱり綺麗な女の子に淹れてもらうお茶はいいね」
「はあ、どうも……」
こういうのを現世ではせくはらと言うのではなかったか。内心で思いながらも、もちろん口には出せない。あいまいな苦笑で返した史帆に、京楽もほほえんでから、口を開いた。
「今回の異動の件、急に悪かったね。五番隊も、あまり君を手放したくはなかったみたいなんだけど、僕がどうしてもって言って来てもらったんだ」
「とんでもありません。私でよければ精一杯努めさせていただきます」
「そう? ありがとう。まあ僕を見てもらえばわかると思うけど、そんなに厳しくて怖い隊じゃないから、気楽によろしく頼むよ」
はい、と答えると、良い返事だね、と笑われ、少し気恥ずかしい気分になる。ちょうどそのタイミングで部屋の扉が勢いよく開いたので、史帆と京楽は揃って入口に目を遣った。
「リサちゃん、ノックくらいしなさい」
京楽が呆れた様子で軽く注意する。その口から出た名前に、史帆は彼女が副隊長であることに気が付いて立ち上がった。ずいぶんと短い丈に切られた特徴的な死覇装だが、その左腕には副官章がついている。眼鏡の奥から鋭い釣り目が京楽を見遣り、ついで史帆に視線を移した。
「あんたか、新しい三席ってのは」
「はい。五番隊からまいりました、四谷史帆です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる史帆に、リサがふんと鼻を鳴らす。
「うちは矢胴丸リサや。ほんでそこのアホ面がうちの隊長」
「口が悪いよ、リサちゃん」
「うちの隊長、息するようにセクハラ発言するからな、気ぃつけや」
史帆はたまらず苦笑した。先ほどすでにされました、とは口が裂けてもいえない。言ったとしても笑って許してくれる隊長ではありそうだが、何せまだ新入りの身分だ。無礼にあたるかもしれない言動は慎んだ方がいい。
リサはソファには座らず、京楽の後ろに立って控えた。副隊長が立っているのだからと思ったが、京楽に「座んなさい」と促されたので、史帆は一礼してまたソファに腰を下ろす。
史帆の淹れたお茶をぐいと飲み干して、京楽は史帆の顔を見、またにっこりと笑った。その笑顔に、一瞬、史帆は妙な違和感を覚える。何かを見定められているような感覚。
警戒されている? いったい何を。
身には何の覚えもないが、はじめて真正面から対峙する隊長格にこうして警戒心をにじませられるのは、背筋が冷えた。自分は何か粗相をしたのだろうか。史帆は今日の自分の行動や発言を思い返すが、しかし思い当たる節はなかった。それに、おそらく、今京楽が史帆に向けたのは、無礼を働かれて怒っているのとは違う種類の視線だ。
やがて、史帆の心中を知ってか知らずか、「まあひとまず」と京楽が口を開く。
「これからよろしくね。リサちゃん、あと頼んでいい?」
「任せとき」
その声は、先ほど史帆がこの部屋を初めて訪れ、京楽と言葉を交わしたときの穏やかなそれと同じものに戻っていて、史帆は自然とこわばっていた身体から緊張がほどけていくのを感じた。
何だかわからないが、もしかしたら自分は、あまり歓迎されていないのかもしれない。
目の前の新しい上官二人を見つめながら、史帆はひそかに唾を飲んだ。