結論から言えば、史帆は隊長にはならなかった。
それを本人が知ったのは、史帆が浦原と出会った数日後の昼食時だった。
「史帆ちゃん、昼飯付き合おうてくれるか」
いつものように前触れなく執務室に訪れた平子が、史帆の机の前に来てそう言ったのである。一席官が隊長と食事を共にするのはおそらく非常に光栄なことなので、その珍しさもあって、史帆は目を白黒させたまま、たっぷり数秒固まっていた。
「私、ですか?」
おん、と平子が頷く。その瞬間、史帆と同じように固まっていた他の席官たちが、何やらこそこそと話し始めたのが、史帆にも聞こえた。藍染だけは、一度だけ顔をあげて平子と史帆をみたものの、すぐに興味なさそうに手元に視線を戻している。
異動の話だ、と察した。藍染と平子が人事配置についての話をしていたのは藍染から聞いたし、先日浦原からも、十二番隊隊長の後任の話を聞いたばかりだ。
「わかりました。ご相伴に預からせていただきます」
「ンな堅苦しなくてええわ。いくで」
ひらりと隊長羽織を翻して執務室を出ていく平子の後に続く。席官たちが頭を下げているのを横目に、史帆は不思議な感覚で部屋を後にした。
「なんや好きなもんあるか?」
「好きなもの……甘いものなら好きですけど」
「昼飯や言うてんねん」
「強いて言うなら卵料理が好きですね」
「ああ、ええな。史帆ちゃんはゆで卵食えるんか?」
「ゆで卵食べれないのなんて藍染副隊長だけですよ」
他愛もない雑談とともに、隊舎を出る。多くの者が昼休憩を取る時間にはまだ少し早いので、食事街の人通りはまばらだった。もう少し遅ければ、席の空いている店を探すのが大変になってくるだろう。歩きがてら通りがかった定食屋が看板に親子丼を掲げていたので、丁度良いと二人はその店に入る。
注文を済ませて、店員が下がったところで、平子が口を開いた。
「今日来てもろたんは、人事異動の話があったからなんやけど」
「はい」
随分あっさりと、ためらいなく話題にのせるのだな、と史帆は思った。
「史帆ちゃん、移隊してほしいねん」
その言葉の意味が一瞬飲み込めず、史帆は数秒返事をできなかった。ショックだったというよりは、ただあまりにも予期していなかった言葉だったせいで、理解に時間がかかったのだ。その沈黙を、ショックを受けているのだと思って平子はぶっきらぼうながらも優しく待っている。
「移隊、ですか」
「おん」
「差し支えなければ、理由をお聞きしてもいいですか?」
困惑しながらの声は思いのほか硬くなった。平子がまずそうに水を一気飲みして、空になったコップを音を立てて置いた。
「あんな、誤解させてたら悪いんやけど、史帆ちゃんは、ほんまに優秀やで」
「ええと、ありがとうございます」
「八番隊の席官が、こないだ虚討伐任務で二人くらい死んでな。それで話し合うて、うちから優秀なんを一人出すことになったんや」
「それで私が?」
「せや」
平子の言葉の選び方には、変に真実をぼやかして甘やかすような優しさはない。それはときにわざと曖昧な言い方をして曲解を誘う藍染と対照的だと史帆が思っている部分だが、今この場においては平子のその在り方は史帆にとってもありがたかった。組織に所属する以上、異動なんてよくある話だ。さほど気を遣われるようなことでもない。
「わかりました。八番隊移隊の命、謹んでお受けいたします」
「おん。すまんな、ありがとさん」
そこで丁度、頼んだ料理が運ばれてきた。史帆の前には親子丼、平子の前には唐揚げ定食が置かれる。けして楽しくはない人事の話を終えて肩の荷が下りたのか、意気揚々と割り箸を取って二つに割る平子を見ながら、史帆は口を開く。
「平子隊長、一つ聞きたいんですが」
「なんや」
「十二番隊隊長って決まったんですか?」
その言葉に、早速唐揚げを一つ口に放り投げた平子がわずかに瞠目する。そんなに驚くような質問だっただろうか、と史帆が思った瞬間、あつい、と平子が叫ぶので、溜息を吐いた。ややこしい。
「まあ、正式就任はまだやけど、ほぼ決まっとるみたいやで」
「そうなんですか。どなたが?」
そこで平子は一度言葉を止め、じっと何かを見定めるように史帆を見た。
「もしかして史帆ちゃん、あの噂聞いてん?」
「え、ああ、はい。聞きましたけど」
「せか。それはすまんかったわ」
史帆は慌てて首を横に振る。平子が史帆を推薦するなどというのはただ噂を面白がった誰かが勝手に加えた脚色だ。平子自身には何一つ非はない。
ただその噂の原因となった、彼が藍染を推薦しない理由だけは、気になるところだけれど。
「新しい十二番隊隊長は、……たしか、浦原喜助とかいうたかな」
「え」
つい最近聞いた名前に、思わず声が漏れた。平子が首を傾げる。
「なんや、知っとんのか?」
「はい、つい最近知り合って……彼が五番隊隊舎に迷い込んだときに」
「はあ? なんやそれ、大丈夫なんか新隊長……」
やれやれといった様子で肩を竦めながらも、平子は淡々と、白米と唐揚げを交互に手早く口に運んでいた。いい加減自分も食べ進めなければ、と目の前に置かれた親子丼を一口すくって、はたと、ゆで卵が苦手なあの有能な幼馴染を思い出す。
切り出すかどうか迷ったものの、聞くとしたら今しかないだろうと思い切って、史帆は尋ねた。
「あの、平子隊長」
「なんや」
「藍染副隊長だけは推薦しないって、おっしゃったそうですね」
ややあって、平子が頷く。表情は変わらないままだ。少なくとも史帆にはそう見えた。
「どうしてですか?」
平子は考えるように目を明後日の方向に逸らした。あまり聞かれたくない質問ではあったのだろう。
藍染と平子は仕事においては良い相方だったが、私事においてはそれほど関りが深い様子ではなかった。それは史帆だけではなく、他の隊員も同じ評価を下すはずだ。仲が悪い、とまで言う者はいないだろうが、二人の間にはまだ他隊の隊長副隊長と比べてもいささか距離がある。
単純に平子が藍染のことを嫌いだとか、たとえばそういった私怨があったとしても、それを理由に彼を隊長に推薦しなかったとは思えない。平子はそういう個人的な感情と仕事場での判断は切り離せる人間だと、史帆は思っている。
新しい唐揚げを箸でつまみながら、惣右介なあ、と平子が呟く。その口調はどこか遠い。
「そんな大層な理由はあらへんねんけどな。理由がほしいならなんでもつけたってええで。優秀な副官がいなくなったら俺の仕事が増えるから、とか」
「……そうですか」
どうやら本心を明かす気はないらしい。思慮深い人だ、と思いながら、史帆も親子丼を食べる箸を進めた。
「さみしいですね」
「せやなぁ、さみしなるわ」
あっけらかんとそう言って、平子はいつの間にか注がれていた水を、また大層まずそうに一気に飲み干した。