■ 04:
◇
『しずちゃん』
優しげな声が脳内に響いた。
物心ついた時から当たり前のように隣にいて、いつだって笑顔を振り舞いていた少女。
自分が『壊れて』からも変わりなく、弟と一緒に側にいてくれた存在。
様々な感情を秘めた彼女の笑みが、暗闇をよぎっていく。
「…―」
トントン。
不意に、小さな刺激が脳に届いた。
軽く肩を叩かれて、一気に意識が引き戻される。
瞼を開ければ、日の落ちた景色に紛れて更に深い闇色が瞳に映った。
漆黒のスーツに身を纏った知り合いが、その特徴的なヘルメットを僅かに傾けてこちらを見ている。
どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
『風邪をひくぞ』
目の前に突き付けられた画面の文字に苦笑を返すと、静雄は公園のベンチから腰を上げた。
「悪い、眠っちまってたみてーだな」
『疲れてるんじゃないのか?』
「あー…んな大したもんでもねぇよ。ただちょっと気掛かりなことがあってよ、」
わざと一旦言葉を切り、くわえた煙草に火をつけながら微かに眉を寄せる。
普通に見れば終了した台詞だが、セルティはその続きを知っていた。
少し躊躇ったように間を置くと、文字を打って静雄の前に差し出す。
『幼なじみのことが心配か?』
「…、ああ」
その文をみた静雄はサングラスの奥の目をスッと細めて、空を仰いだ。
静かに、白い煙が吐き出される。
「あいつは、何があっても俺に助けは求めねぇ」
低い声が、夜の冷たい空気に沈んだ。
手をライターと共にポケットに突っ込むと、視線を地面へと落とす。
「昔っからそうだ」
セルティは、黙って聞いていた。
いつものコミュニケーション手段であるPDAを握り閉めたまま身じろぎもせずに、ただ静かにそこに滞在する。
いつもの堂々とした存在感が陰を潜めた、その儚い背中を見つめた。
「人の気持ちに敏感で、何でもお見通しで。その癖、自分の気持ちは悟らせねぇ」
淡々と紡がれる言葉には、悔しさや虚しさといった重い枷が一つ一つに纏わりついている。
一体どんな想いで、彼女を見守ってきたのだろうか。
セルティにもかけがえのない者がいるからこそ、理解できる。
そんな大切な存在が、苦しんでいる時に何もできなかったら。
自分のせいで、傷付いたり危険な目に遭ったりしたら。
最愛の同居人の事を想いながらそれらを想像して、セルティはブルリとその身体を震わせた。
池袋でも恐れられている静雄は、その仕事柄でも反感を買うことが多い。
彼がいないだけでも動きやすくなる輩は捨てるほどいるだろう。
そんな中、自分と関わりを持つ者の身の安全を気遣うのは当たり前のことだ。
いつ人質にとられても、おかしくないのだから。
何と声を掛けていいのか分からず困っていると、それを察したのか、寄せていた眉を和ませた静雄がセルティに視線を向けた。
「悪かったな、こんなしけた話しちまって」
『いや…』
続きを打つ前に、セルティの視線は静雄の足元に釘つけになる。
小さな影が、彼の足元に擦り寄っていた。
「ん?」
『猫?』
セルティが誰に見せるでもないのに画面に打った文字に応えるように、それは短く、みゃあと鳴く。
どこか見覚えのある模様を目にすると、静雄は軽く首を傾げてその首ねっこを摘み上げた。
目の前に掲げると、顎に手を当てて考え込む。
粒羅な瞳と見つめあって数十秒。
答えは、出た。
「…ああ、雅んとこに通ってる猫か」
雅を訪ねた際によく餌やりに付き合っていた為に、特徴的な猫は大体記憶に残っている。
それを聞いたセルティも納得するように頷いた。
静雄の幼なじみは、彼女も見掛けたことがある。
綺麗な黒髪を持つ、酷く柔らかい笑みを浮かべる女性だ。
全てを慈しむようなそれは、同時に何も悟らせない、優しい拒否をセルティに感じさせた。
自分の感受性の問題だが、何となく、静雄も同じように感じているのではないかという確信があった。
猫に餌をやるなんて、彼女なら様になりそうな図だよなあ。
そんな見当違いなことを考えながら、とりあえず目の前の光景を見守ることにする。
「何だ、今日は行かねえのか?」
「みゃあ」
「そういや最近野良猫増えたらしいなぁ」
「にゃあ」
『…』
静雄が猫相手に喋っている姿なんて見たのは、もしかして自分が最初で最後ではないだろうか。
記念に写メでも撮るかと携帯を取り出しかけたが、断念した。
後が、怖い。 セルティも静雄の強さを目の辺りにした一人である。
わざわざ彼の怒りに触れるなんて危険は侵さない。
こっそりと出し掛けた携帯をしまう彼女をよそに、静雄の中では微かな疑惑が生まれかけていた。
何となく、何となくだが、嫌な予感がする。
くわえていた煙草を器用に片手で携帯灰皿に入れ込むと、猫をそのまま抱え込んだ。
「ちょっと雅んとこ行ってくるわ」
『ああ、彼女によろしくな』
セルティに背を向けた静雄は軽く片手を挙げ、公園を後にする。
背後で馬の雄叫びのような音が遠ざかったのを聞いたのち、静雄は走り出した。
背中を嫌な汗が伝う。
この勘が当たっていなければ当たっていなかったでいい。
またいつもの笑顔で遠回しに棘を刺されて、一服して、どーでもいい会話を交してして帰るだけだ。
その方が、いいに決まっている。
しかし、静雄の心臓は落ち着くことはなかった。
急かすように激しく脈打ち、主から冷静さを奪っていく。
脈の店が見えてきた辺りで、それは更にスピードを増した。
一旦足を止めて、呼吸を整える。
探るように細めた瞳は、灯りのともった硝子戸を捉えた。
そのまま歩み寄って手を掛けるが、つっかかりが扉のスライドを阻害する。
ガチャン。
耳を掠めた耳障りな音が、鍵が掛っていることを示していた。
「…中にいんのか?」
そういえばもう店じまいの時間だと携帯画面の時計で確認するが、不安が拭いきれない。
一目でも姿が見たい。
いつもの笑顔が見れればそれでいい。
そんな想いでとりあえずここから呼び掛けてみようと口を開きかけるが、それは拒まれた。
みゃあ。
腕の中の猫が鳴いたかと思うと、突如スルリと抜け出し、身軽に地面に着地する。
「おい、」
静雄の呼び掛けにも構わず軽快な動きで踵を返した猫は、そのまま裏口へと消えた。
反射的にその後を追った静雄は、再び暴れ始めた心臓を抑えつける。
ああ、胸糞悪ぃ。
嫌な予感がする。
止まらない、
ト マ ラ ナ イ 。
―道が、拓けた。
「―!!ッ…」
思わず息を呑む。
店の裏口の扉が、半開きでキイキイと音を立てていた。
追いかけてきた猫が佇むその周りには、クタリと横たわる猫が数匹。
この光景が何を表しているか、なんて考えるまでもない。
目の前が真っ暗になる。
『しずちゃん』
数十分前と同じ、慈愛に満ちた声が頭に反響した。
ギシリ、ミチリ。
身体中の筋肉が悲鳴を上げるのが分かる。
「ッッッ畜生あああぁああ…!!!!」
ズォオン…。
物凄い地響きが空気を震わせ、土煙の中から、コンクリートの壁にポッカリ開いた穴が覗いた。
猫は驚きを隠せずに、勢いよく暗闇に姿をくらませる。
パラパラと拳から落ちる欠片に目もくれず、静雄は鋭い眼光をちらつかせた。
長年自分の支えになってきた笑顔が、何度も何度もフラッシュバックした。
今日も伸ばした手は届かないまま、空を掴む(無力な自分が、激しく憎い)
(どうか自分を責めないで)
すり抜ける、溢れ落ちる。