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■ 03:




 ガンガン鳴る頭に疑問を持ちながら、雅の意識は覚醒した。

 ヒヤリとした空気が肌を撫でる。
 ゆっくり瞼を上げれば、薄暗い室内が目に入った。
 そこら中に積み上がった木箱が視界を悪くしている。

 鼻を擽る埃っぽさに少し眉を寄せながらも、雅は瞬時に現在の状態を把握した。



「…、やっちゃったなあ」



 苦笑しながら、溜め息混じりに呟く。

 後ろ手に拘束されている手を動かそうと試みるが、余程丹念込めて縛りあげてくれたのかビクともしなかった。
 食い込む縄に、早々に諦める。

 さて、どうしたものか。

 軽く首を傾げた雅の脳は、着々と記憶を辿っていった。




―数時間前。

 いつものように最後の客を送り出した雅は、店の裏口で野良猫に恒例の餌やりをしていた。

 最近の新入りである三毛猫の喉をゴロゴロ鳴らす。
 前日、忙しい幼なじみが久しぶりに顔を見せてくれたことで、浮かれすぎていたのだ。
 ここのところ毎日のように細心の注意を払ってきたのに、今日に限って油断した。

 フーッ。

 いきなり警戒心を露にし始めた猫達に、嫌な汗が背中を伝う。

 ザリ。

 その足音に気付いた時には、もう遅かった。



「はい、お姫様確保ー」



 耳元で笑う声に、ゾワリと身の毛がよだつ。



「!!…ッ〜」



 考える間もなく口元を覆った布に慌てて顔を背けようとするが、既にがっちり首に腕を回されていた。

 されるがままに、布に染み込んだ薬品をかがされる。
 ツンと鼻をつく匂いに、かすれる意識。

 …、ごめん、しずちゃん。

 眉を寄せた幼なじみの顔が頭をよぎった。
 これを予期してわざわざ忠告にきてくれていたのに、こんなにあっさり相手の手中に納まるとは。

 悔しい、なあ。

 堕ちる意識の中、暗い闇に呑まれる最中で、猫の鳴き声と男達の声だけがぼんやり聞こえた。




―ガタンッ。

 突如響いた音に、雅の意識は現実に引き戻される。
 開け放たれた扉から、うっすらと光が入りこんだ。



「お、お目覚めー?」



 男にしては少し高めの軽い声が、倉庫内に反響する。
 当たり前だが、聞き覚えはない。

 カツ。

 硬いブーツが地面を鳴らした。
 ひょいと、影が雅の前でしゃがみ込む。



「手荒な真似しちゃってゴメンねー?こっちも必死でさ」

「貴方は見張り?」



 柔らかい声が響いた。

 こんな状況にも関わらず落ち着いた声で顔を傾けた雅に、青年は少し驚いたように黙りこむ。
 ワックスで固めた茶髪を片手でガシガシと崩して、あどけない顔で笑った。
 両耳に付けた無数のピアスがいくつか覗く。

 声から見ても、二十歳になるかならないかというところだろう。 
 整えられた眉を器用に片方だけ寄せて、雅の顔を覗き込みながら唇の両端をつり上げた。



「んー、見張りってわけじゃなくてさ。お姉さん思った以上に俺のタイプだったからこっそり口説きに来ちゃった」



 弾んだ声で言われた言葉に三回ほど瞬きをした雅は、傾けていた首を元に戻す。
 フワリ、と微かに前髪が揺れた。



「そっか。人数は四人くらいかな?」

「あれ、スルー?まあいいや。それより何で分かんの?エスパーだったりして」



 カクンと崩した体勢を戻しながらおちゃらける青年に、雅も笑う。



「ふふ、ただの勘だよ。そんなに簡単に情報流しちゃっていいの?」

「人数ごときどうってことないじゃん。言ったところでお姉さんに何かできるわけでもないし」

「それもそうだね」



 睫毛を伏せるようにして、雅の口は穏やかに弧を描いた。
 それをじっと眺めながら、青年は大腿を台に頬杖をつく。



「お姉さん、静雄の女って話だけど」



 まあ、だから今拉致られてんだけどさ。

 つまりは静雄に対しての人質だと、この状況をより確信させる言葉と共に、雅の髪に手を伸ばした。
 人差し指に毛先を絡ませ、クルクル弄びながら問掛ける。



「それってホント?」

「しずちゃんとは幼なじみだよ」

「マジで?じゃあ俺これ終わったら狙ってもいい?」

「君は今しずちゃんが抱えてる仕事関係の人かな?」

「…会話のキャッチボールする気ある?結構マジで言ってんのになあ」



 先程と同じ見事なスルーに軽く肩を落としながら、青年は雅の髪から手を引いた。

 否定しないということは、肯定ととっていいのだろう。
 静雄の言っていた最近増えている厄介な客とは、恐らく彼等のことだ。
 
 静雄の言葉を思い出しながら考え込む雅を目の前に、青年は微かに眉を顰めた。



「つかお姉さんさ、今の状況分かってるわけ?」



 少しだけ低くなるトーンにも雅が動じる様子はない。
 視線を落としたままの穏やかな表情に、青年の声色に不審感と不快感が混じり始めた。



「ああ、それとも静雄が来るから大丈夫とか思っちゃってる?」



 嘲笑を含めた音を雅に浴びせかけながら、両手で軽くその肩を押さえ付ける。



「別にお姉さんをどうこうしようってわけじゃないけどさ、もうちょっと怯えとかあってもいいんじゃないかな」



 ギリギリと徐々に力の入る手にちらりと視線をやったのち、雅はゆっくりと口を開いた。
 聞きやすいソプラノが紡ぎ出される。

 しかし、その内容は中々突拍子のないものだった。



「最近店裏に野良猫が一匹増えたんだよね」

「…野良猫?」



 いきなりの世間話に、自然と手から力が抜けてくる。

 確かに、雅を拐った時に何匹か野良猫を見た。
 随分彼女に懐いていたらしく、運ぶ際に引っ掛かれたりなどして手間取ったのも憶えている。
 記憶に新しいものの何故、今そんな話が出てくるのだろうか。

 意味が分からないといった風に見つめると、視線の合わない瞳が笑った。



「野良猫って言っても首輪がついてるんだけど」

「え、それって野良猫って言わないんじゃね?つかその話何か関係あんの?」



 素直な疑問をぶつければ、フワリと花が綻ぶように笑う。
 雅のそんな笑顔に思わず目を奪われる青年だったが、その唇から溢れた言葉は実にトゲトゲしかった。



「その首輪がまた趣味悪くて」



 聞いた事もないような優しげな声で吐き出された台詞に、物凄い違和感を感じる。
 声と内容のギャップが激しすぎて、脳が処理しきれない。

 少し遅れてやっと理解した青年は雅の毒舌に意外そうに目を丸くして、そのまま感想を口にした。



「それって飼い主に失礼じゃ、」



 否、しようとした。

 しかしそれは叶わず、青年はピタリと動きを止める。



「!」

「酷いなあ雅ちゃん」



 突如鼓膜を揺らした声は、青年の背後から聞こえた。

 同時に首に感じる冷感。
 ピタリと押し付けられたそれがナイフだと気付くのは実に容易かった。
 暴れる心臓を理性で押さえ付け、冷静を装って声を絞り出す。



「…、何お前?どっから入ってきたわけ?」

「どっからも何も、初めからここにいたんだけどさ」



 告げられた事実に、軽い眩暈が青年を襲った。

 いつだ?
 一体いつ、侵入を許した?

 必死で記憶を探るが、これといって思い当たる節がない。

 倉庫は雅を閉じ込めた後はしっかり鍵をかけていたし、自分が入った後だって入れば何かしら音がする筈だ。
 倉庫の重い扉を何の音もたてずに開けられる筈がない。

 だとすると、自分達が雅を拐って帰ってくるまでの間ということになる。
 
 しかし、どうやって。
 そして、こんなところにいるということは彼女の見方なのだろうに、何故自分が此処に入ってくるまでに助けなかったのか。

 色々な事が目まぐるしく青年の頭を掻き回した。
 そんな青年のことはそっちのけで、愉しげな声は雅に向けられる。



「で、君はいつから首輪に気付いてたんだい?」

「三日目くらいかな。それよりもどうやって気まぐれな猫をあんな自由自在に操ってたのかが気になるよ」

「それは企業秘密。にしてもよく俺って分かったねえ」

「こんなことをするのもできるのも、折原君くらいだからね」



 折原と呼ばれた青年は満足そうに笑った。
 対照的に、青年の顔からは血の気が引く。


―折原臨也。


 平和島静雄を知る者ならば知らざるを得ない存在だ。

 静雄と犬猿の仲であると同時に、その化物じみた怪力と喧嘩で渡り合う程の実力者。
 静雄と同じく、敵に回してはいけない人間の一人だ。
 更に、先程の会話で大体トリックは読めた。
 察するに、盗聴器でも仕掛けた猫を雅の店に通わせていたのだろう。

 苦い顔で拳を握るが、ナイフを当てられたこの体制では身動きは取れない。
 そんな様子を滑稽そうに見つめながら、臨也は雅との会話を続けた。



「君のことだから、きっとこれから先のことも視えてるんだろうね」

「ん、ある程度は」

「じゃあ、俺が出す条件も分かるかな」



 端正な顔に見惚れるような笑みを張り付けての問掛けに、少しの沈黙が降りる。
 何となく張り詰めた空気に、青年が息を潜めた。

 二人分の視線を受けながら、雅は静かにクスリと笑みを溢す。



「…物好きだよね、相変わらず」

「誉め言葉として受け取っておくよ」



 二人の中だけで会話が成立した。

 自分だけ蚊帳の外といった雰囲気が気に入らなかったのだろう。
 ムッとしたように青年が片目を細めた。



「なあ、俺を無視すんの辞めてくれる?こんな体制でも一応、敵なんだけど」



 いくら有利になってるからって無視はないだろ?

 首は下手に動かせないため、とりあえず目線だけは最大限に背後に向ける。
 チラリと黒い袖口が視界にちらついた。

 笑いを含んだ声が、ここにきてやっと再び向けられる。



「ああ、忘れてたよ。そういえば君さ、此処に来る前ちゃんと飯食ってきた?」

「は?話の流れが掴めねぇんだけど。大体このお姉さんと最初に喋ってたの俺だし。横取りなんて野暮っしょ」



 雅と同じく何の脈絡も掴めない話題を振られ、青年は更に不快そうに眉をつり上げた。

 同じ条件にも関わらず、彼女の時とは違い嫌悪感も露に返す青年に、臨也は愉快そうに目を細める。
 こんな不利な体勢でもつっかかってくるなんて、余程雅が気に入っているらしい。
 雅を取られたのが悔しかったのだろう。

 刺すような眼光を心地よさそうに受け止めながら、臨也はナイフを突きつけたまま青年の横に足を進めた。



「いやいや、別に大したことじゃないんだけどさ。食ってきてるならそろそろだと思ってね」

「何言って…、!?ッ…」



 いきなり動きを見せた臨也に不審そうに眼を向けた瞬間、青年の視界が一瞬真っ暗になる。

 ぐらり。

 平衡感覚を失い、微かに取り戻した視覚は反転を捉えた。
 景色が回る廻る。

 気が付いた時には、身体は地面に伏せていた。
 しゃがみ込んだ体勢からだったためにそこまでの衝撃はなかったものの、倒れた際に打ったらしく、片肘がジンジンと痛む。
 指先まで痺が伝わり、思うように身体が動かない。

 石のような首を無理矢理挙げ、目の前に立つ臨也を睨み上げた。



「テメ…ッ何しやがった!?」



 ナイフを袖口にしまい込みながら、臨也は可笑しそうに唇を歪める。



「なに、魔法の薬をちょっと君らの飯にパラパラっとね。多分残りの三人も君と同じ状態だろうねえ」

「ッくそ…いつの間に…!」

「心配しなくても痺れて動けくなるだけだから。効果は数十分ってとこかな」



 悔しそうに唇を噛み締める青年を見下ろすと、臨也は軽快な動きで青年の前に片膝をついた。



「シズちゃん対策に雅ちゃんっていう目のつけどころは褒めるけどさ、」



 一旦区切って、最高に邪悪な笑みをその顔に浮かべる。



「やり方が実に気に入らない」



 爽やかな声に籠められた悪意を、青年は確かに感じとった。

 喩えるならば玩具を横取りされた子供のような、無邪気な憎しみ。
 今まで感じたことのない恐怖に見舞われ、握り閉めた手に冷たい汗が滲む。
 反射的に目を反らした青年をにこやかに見やった後、今度はその視線を雅に向ける。



「さて、と。聞くまでもないと思うけど、どうすんの?」



 優しげな柔らかい問掛け。
 しかし、雅は確信していた。

 もしここで自分が首を振ろうものなら、すかさずその整った顔に綺麗な笑顔を張り付けて、躊躇なく男達と同じ薬を自分に盛ることだろう。
 そしてあっさりとこの場から去り、安全な所で傍観を決め込むのだろう。
 そういう男だ。

 雅は理解していた。

 そうすれば、もう打つ手はない。
 予定通り自分を餌に静雄は誘き寄せられ、自分の為に傷付くことになるだろう。
 臨也が最初で最後の望みなのだ。

 それを熟知しているからこそ、彼はギリギリまで姿を現さなかった。
 臨也が猫を寄越した時からこのような状況は覚悟していた。

 困ったように笑って音もなく息を吐くと、雅はずっと伏せていた視線を上げる。

 いつかと同じ、強い光を讃えた瞳で笑う姿に、臨也は愛しそうにその髪を撫でた。



「やっぱり俺は君が大嫌いだよ」



 雅は誰にも真似できないような和かすぎる笑みを臨也に向ける。

 ギシリ。

 食い込む縄に悲鳴を上げる手首に構うことなく、身をよじって冷たい温度に触れた。
 更に密着するように後頭部に手を回されるが、どうするでもない。
 昔のままの体温に、何を思うでもなく目を閉じる。

 ふわり。



 空気に溶け込むように舞う黒髪が、意識も朧気な青年の瞳に焼き付いた。








拒否権なんてないんでしょう?




(断れないって、分かってるくせに)


(利用してるのかされているのか、最早分かったもんじゃないね)




口に広がる鉄の味。







(お題配布元:てぃんがぁら様)


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