■ 01:
◇
フワリ。
風が雅の髪を浚った。
真っ赤に染まる空、半分沈む夕陽を見つめる。
指を掛けた屋上のフェンスがガシャリと音を立てた。
「君から呼び出しなんて、どういう風の吹き回しかな?ああ、とうとう俺に愛の告白をする気になったとか」
背後から聞こえた声に、振り返ることもなく笑みを返す。
誰か、なんて確認する必要もない。
「まさか。貴方のことだから大体察しはつけてきてるよね、折原君」
「まあね」
臨也からクスクスと漏れる愉しげな笑い声に苦笑を浮かべて、睫毛を伏せた。
「しずちゃんと折原君の因果は運命みたいなものだし、今更喧嘩を止めようなんて野暮なこともしないけど、」
ガシャン。
気配もなく隣に並んだ臨也が、クルリと身体を反転させてフェンスに寄りかかる。
やはりそちらを見ることなく、雅は続けた。
「明日は幽くんの誕生日だから、1日、手を出さないでほしいな」
柔らかい声で淡々と、要件だけを伝える。
そんな彼女に、臨也は満更でもなさそうに笑った。
―飴凪雅の当初の認識は、平和島静雄の幼なじみという肩書きだけだった。
当時荒れていた静雄が心を許す、学校では唯一の存在であり、それ故同時に折原臨也の興味の対象になりえた。
初めは静雄の弱点として利用価値がありそうだと、そんな軽い気持ちで近付いた。
『やあ』
『折原臨也君?』
『へえ、もう知ってくれてるんだ』
静雄と直接的な接触をする前だった為に、それには素直に驚く。
面白そうに目を細めた臨也に、雅も口元を弛めた。
『あれだけしずちゃんに熱視線送ってたら気にもなるよ』
『ああ、常に隣にいるもんねえ。そりゃ気付くか』
『…、程々にしてね?』
少し間を空けて呟かれた言葉は、普通にとれば、主語は「むやみに視線を送るのは」だ。
しかし、臨也はその意味を的確に汲んだ。
唇を歪めて、今までとは違う目で雅を見る。
『意外だなあ、俺が幼なじみにちょっかい出すの止めないんだ?』
完全に止められることを予想して話し掛けた臨也は、それが裏切られた事に微かな快感を覚えた。
それすら見越したように、雅はクスリと笑って視線を反らす。
『折原君としずちゃんが出会うのは、必然だから』
―出会った頃を思い出し、臨也はうっすらと笑みを浮かべた。
「君はいつだって先を視てるよねえ」
「折原君ほどではないと思うけど」
夕陽を見つめたまま少し困ったように微笑む雅に、身体を向ける。
静かにフェンスから身体を離すと、更にその距離を縮めた。
ポケットに手を突っ込んだまま、からかうように上半身を折り曲げてその横顔に顔を近付ける。
「その件については、君次第かな」
「条件は?」
こうなることが分かっていたかのようにあっさり返ってきた返事に、満足そうに頷いた。
わざとらしい空白を空けてたのち、ゆったり笑う。
「君がここでキスしてくれたら、明日1日は手を出さないであげる」
特別な意味はなかった。
ただ、これに対しての雅の反応が見たかっただけ。
さて、どう動くかな。
彼女の表情を見ようと細めていた瞳を開けた刹那、臨也の視界に黒髪が舞った。
それが何なのか認識する前に触れた体温に、柄にもなく驚く。
唇が離れると、風にさらされた肌が寒さを主張した。
「―…、約束は、守ってね」
離れながらスローモーションで睫毛を上げた雅は、笑う。
真剣な瞳で笑った彼女に、ゾクゾクと沸き上がる快感を押さえ付け、臨也はそっとその頬に触れた。
「まさかとは思うけど、慣れてる?」
「残念ながら初めてだよ」
「ふーん…、女の子ってそういうのにはこだわるもんだと思ってたけど、」
間髪いれず、今度は憎らしげに微笑んで、顎に移動させた指で雅の顔を持ち上げる。
「そんなにシズちゃんが大事?」
黒い瞳が笑った。
「大事」
シンプルな一言に凝縮された感情を読み取り、思わず眉を顰める。
「…、もう一回してくれたら、あと一週間延長するけど」
笑みを張り付けて吐き出した言葉には、返事は返ってこなかった。
先程やっと交わった視線はあっさり外され、口元の穏やかな弧だけが臨也に向けられる。
雅はスルリと臨也の指から抜け出すと彼に背を向けて歩き始めた。
―残念。
どうでもいいように肩をすくめて、それを止めるでも追うでもなく眺める。
不意に、雅が立ち止まった。
「折原君、好奇心旺盛は素敵なことだけど、あまり調子にのってるといつか誰かに刺されるよ」
いつもの調子で、癒しだと好評の優しげな声で、洒落にもならないことをさらりと言う。
その内容よりも、まだ自分と話す気があるのかと、そちらの方に意外性を感じた。
何に対してでもなく皮肉げな笑みを浮かべ、臨也は再びフェンスにもたれかかる。
「じゃあ折原君、また明日ね」
振り返った雅はフワリと笑った。
やっぱり視線は、合わなかった。
バタン。
屋上の重い扉が閉まる音を聞き流し、臨也は空を仰ぐ。
「忠告ありがとう。肝に銘じておくよ」
愉しげに呟かれた言葉は誰にも届くことなく、空気に溶けた。
赤い紅い空が、臨也の瞳に鮮やかに映り込む。
フェンスに体重を預けたままさりげなく校庭へと視線を向ければ、金髪と並ぶ黒髪が見えた。
自分の時とは違う、しっかり相手の目に焦点を合わせる瞳に、唇が歪な弧を描く。
折原臨也が、飴凪雅という人間への気持ちを改めた瞬間だった。
夕陽に照らされた君は、何よりも(憎くて愛しい、矛盾に反吐が出そうになるよ)
(嫌いなわけじゃない。ただ、大事な人を守りたいだけ)
烏は鳴いた、泣いた。