◇
「っぐ、ぅ…」
「本当は何発かぶん殴りたいくらいだけど、冥さんに止められてるし。雅さんの前だから今回はこれで勘弁してあげる」
次があるとは思うなよ。
唖然とする雅の前で鮮やかに男の意識を落とした五条は、その身体を隣のソファに投げやった。
暗い店内と大きすぎるBGMで、これだけのことをしても全く気付かれず騒ぎにもならない。
更に壁際で、ソファにより視界も遮られたこの空間。
飲み物を提供してきたカウンター店員も男とグルの可能性が高く、何かがあったとしても見て似ぬ振りだっただろう。
その事実に今更気が付いて、恐怖がじわじわ脳内を侵蝕した。
空いた隣に腰を落ち着けた五条にお礼を言うが、続けて疑問も湧き上がる。
「でも、なんでここが…」
「冥さんに連絡したでしょ。まあそれがなくても辿れたけどね」
何だか恐ろしいことをさらりと述べると、雅のジャケットの襟に手を伸ばして指先に攫った物を見せつけた。
小さなボタン電池のような物体に、何となく察して黙る。
冥冥か五条か。
どこに行ってもジャケットは脱がない雅の性格を知っている二人なら、どちらでも可能性はあった。
しかし、それが自分の身を案じて成された事実と、実際にこんな目に遭って助けられたのだからぐうの音もでない。
それで?
耳元で囁かれる音に思わず首を竦めるが、それに愉しげに喉で笑った五条に更に距離を詰められた。
「僕から離れた三日間、何かひとつでもいいいことあった?」
「…なかっ、…っ、」
素早く奪われた酸素に抵抗しようにも、先ほどから力が入らないのだからどうしようもない。
何の抵抗もないことにはさすがに違和感を感じ取ったのか、案外すぐに唇を離した五条が首を傾げた。
「今日は大人しいね。さすがに今回のは恐かった?」
「…なんか…力が、入らなくて」
「は?」
雅の言葉に咄嗟にカウンターに視線を滑らせると、半分ほど中身の残るグラスに表情を険しくする。
「他に何か症状ある?熱っぽいとか眠いとか」
「ない。怠いだけ」
「…なるほどね。やっぱり病院送りくらいにはしておこうか」
「だめに決まってるでしょ」
後ろに視線を流す五条の瞳孔が完全に開いているのを確認してしまい、反射的に止めた。
これは本気の目だ。
しかし、それが裏目に出たらしい。
その表情のまま雅に焦点を戻した五条が、すぅと双眼を細めた。
「へぇ。まだ自分の状況が呑み込めていないみたいだね。雅さんさ、コイツに何されようとしてたのか、ちゃんと分かってる?」
「分かってるよ」
「ふーん。じゃあ、答え合わせしようか」
「ん!?」
言うなり、雅が反応するより先に喋る術を奪う。
息継ぎの間もなく角度を変えてなされるそれに、頭が朦朧とした。
何だかんだでいつも優しく触れてきた彼から、こんなキスを受けたことはない。
合間を縫って何とか酸素を取り入れるが、するりとジャケットの裾から入り込んできた温度に息をのんだ。
「ちょ、っ…待っ…」
「ここまで用意周到に女を手に入れようとしたヤツが、そんな言葉に耳を傾けると思ってる?」
薄手の素地の上から腰を撫で上げる感覚に、一気に血の気が引く。
彼らしかぬ触り方のせいで、目の前に映す情報が五条を示していても、身体の全てが相手を拒否した。
雅の完全に温度を失った肌と、明らかな震えに気付いたのか。
大きな溜息とともに、一気に空気が動いた。
「…まだ答え合わせの最中だけど、雅さんの不正解ってことでいいよね」
ーごめん、さすがにやりすぎた。
ぼそりと謝罪が届くと同時に、こめかみに唇が寄せられる。
慰め方も、肩に回される指先も、触れるだけの口付けも。
通常通りに戻ったそれらに、安堵のためか涙腺が弛んだ。
ぽろりと零れ落ちる涙を慌てて袖口で拭っていると、唐突に現れた白い指先が雅の手首を抑える。
「こらこら、そんな擦り方をしたら赤くなるよ」
聞き慣れた美声にぎょっとしてカウンター側を見れば、いつの間にいたのか、やはり優雅に微笑む上司の姿。
ただし、格好は店のスタッフと同じそれだ。
バーテンダー服を見本のように着こなす冥冥に惚けていると、笑みを浮かべたまま少し咎めるような視線を五条に送る。
「五条君、女の子を泣かすのは感心しないな。泣かせたいくらい可愛いのは分かるけどね」
クスクスと自らの髪を弄ぶ様は、普通に客寄せになりそうだ。
雅の肩に回した腕はそのままに、むっとしたように五条が反論する。
「僕だって泣かせたくて泣かせてるわけじゃない。今回は根源に手出し禁止だし、怒りが発散できなかったの」
「まあ確かに、この状況で君が我慢できたことは賞賛に価するよね。知人を使って薬まで盛るとは思ってなかったし」
「で、そいつは?」
「盗聴していた時の声で判別できたから、一番に眠ってもらったよ」
さらりと言ってのけるが、雅の記憶が正しければカクテルを置いていった彼は結構な体格だったはずだ。
言われてみれば、カウンターには冥冥以外のスタッフも見当たらない。
はて、冥さんは一体何者なんだろうか。
相変わらずの謎ぶりに放心状態になっていたが、不意に頬を撫でる白い温度に我に返った。
「まったく、私を無償で動かせるのは君くらいだよ。無事だったかい?」
「あ、はい…二人のお陰で。お手数をおかけしました」
するすると肌を滑る指先に思わず頬を染めるが、面白くなさそうに抱き寄せられる力が強まる。
「ちょっと冥さん、僕の前で堂々と誘惑すんのやめてくれる?雅さんもその反応はダメ絶対」
「ちょっ、と…苦しい五条…」
「フフ、雅が可愛くてつい。じゃあ私はそれの処理をしておくよ。五条君は彼女を早く休ませてやってくれ」
「もちろん。こんな場所からは一刻も早く退散させたいからね」
「裏口に車を用意してある」
「さすが冥さん。ありがたく使わせてもらうよ」
いつの間にやら横抱きにされ、その場から離れる流れに慌てて五条の服を掴んだ。
「!あの、冥さん。彼は…一体どうなりますか」
怖い想いはしたが、感情の制御が下手だっただけ。
バイト時代もマネージャーの今も、自分を気に掛けてくれていたよき先輩だったことには変わりない。
雅の考えていることは二人には筒抜けなのか。
表情は正反対だが、溜息は共通だった。
「一応当事者は君だからね。どうしたいのか言ってごらん」
「そりゃクビ一択でしょ」
「五条君の意見は聞いていないよ」
「…私も、こんなことがあってすぐ今まで通りに接する自信はありません。でも、この仕事は先輩の天職です。この業界で働く術は、残してあげてください」
「分かった。善処するね」
「っありがとうございます」
頭上から軽い舌打ちが聞こえるが、気にしたら負けだ。
いよいよ五条が歩き始めたため、あとは身を任せるしかない。
数秒後、何か言い残したのか元々見送るつもりだったのか。
再び現れた冥冥が、裏口への通路で扉を開けてくれた。
「…私もね、一応彼のことは調べたんだよ。幼い頃から恵まれない境遇だったのも、その中で出会った君の存在の大きさも理解できる。異常なまでの執着の理由も、本人の話を聞いていて納得した」
聞いていたとは?と突っ込みたいのは山々だったが、先ほども盗聴などと単語がでていたし、今更気にすることでもないだろう。
この年で横抱きにされて移動するだなんて滅多にない経験のせいか、気が緩んだ安心感からか。
少し夢見心地になってきていた。
しっかり聞かないと失礼なのは分かっているのに、ぼんやりと聞き流すような感覚になってしまっている。
そんな状態の雅を受け入れるかのようにフフッと笑みを溢した冥冥は、すれ違う寸前で彼女の髪を一束すくいあげた。
「雅…君の人の長所を見抜いて認め、肯定する力。ずば抜けた洞察力と気遣い。これらは何にも代えがたい私の宝だよ。これからも期待しているからね」
そのままその黒髪に唇を寄せる姿に、曖昧になっていた意識が一気に引っ張り戻される。
「っ冥さん…!」
「はーい面会時間終了でーす。だから冥さんそれやめてってばマジで」
「おっと。女同士の戯れなのに、相変わらず君も相当だよね」
「分かっててやってるでしょ。雅さんの反応が僕の時よりいいのが癪なんだよね」
「それは私と雅の仲だから」
「はいはい通るよー」
気持ち冥冥から隠すように雅を抱え直した五条は、今度こそ店から足を踏み出した。
いつの間にやら、すっかり日が落ちている。
「じゃあ、また処理が終わり次第連絡するね」
「うん、よろしく」
二人のその会話を最後に、今度こそ雅の意識は水底に沈んだ。
今まで以上に離してあげない