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チカチカ色の飛びかう暗がりの店内。
辺りを見渡した雅は、カウンター席の奥で手を振る人影をみつけると小走りで駆け寄った。
「飴凪さん、ここ」
「お待たせしてすいません」
「大丈夫大丈夫。寧ろこっちがいきなり連絡したんだから」
来てくれてありがとう。
端正な顔にニコリと人受けしそうな笑みを浮かべる男性は5歳ほど年上で、雅にとっては先輩に当たるマネージャーだ。
新人のときに研修でいろはを教えて貰った後も、彼の担当モデルが何度か五条と一緒の仕事に入った関係もあり、比較的関わりは多かった。
そのため、彼から五条への毒入り差し入れの事件を聞いた時もそのまま鵜呑みにしてしまったが、この三日間で冷静に整理していた中で気付いた事実。
なぜ、被害もでていないのに毒入りだと分かったのか。
そしてなぜ、そんな重要なことが騒ぎにならず誰からも声をかけられなかったのか。
五条ほどの人気モデルがそんな目に遭えばたちまち大騒ぎになるだろうし、色んな方面から心配や確認があったはずだ。
しかし、あの時声をかけてきたのは彼一人で、場所も人気のない廊下でのこと。
「大事にしたくないから他言無用らしいんだけど、君には伝えておくよ」
そんな前置きがあろうがなかろうが、上の立場である冥冥が初耳だった時点で気が付くべきだった。
動揺していたにしてもそんな当然なことに気が付かなかった自分に、頭が痛くなる。
加えて、このタイミングでの話があるとの呼び出し。
どんな経緯にせよ、彼が今回の件に関わっていることは間違いないだろう。
待ち合わせ場所がやや会社寄りだったことには、今までの努力の意味!と涙を呑んだが、解決のためにはこれを逃す手はなかった。
雅自身の移動時間のため時間は遅めに設定してもらったし、その間に冥冥への連絡も済ませてある。
まだ確定ではなく相手の言い分も聞いていないため、何時にどこで誰と会う約束をしたという報告だけだ。
「ー遠かったよな。そんなところにいるなんて知らなくて無理言ってごめん。疲れただろうからとりあえず座って」
到着した雅のためにソファを立ち、壁際の席に誘導してくれた。
申し訳なさそうに眉を下げる姿からは、どうにもこんな物騒な件に関わっているイメージが湧かない。
何か訳があるのかもしれないし、傷つけないように慎重に聞き出さないと。
ひとり意気込みながら、言葉に甘えて腰を落ち着ける。
それにしてもカウンター席にソファとは中々珍しい構造だ。
ざっと店内を見渡しても丸椅子などはなく、ソファ席ばかり。
店的にもカップルを対象にした趣向なのかもしれない。
…他の人とこんな場所、五条に怒られるかな。
そんなことをぼんやり考えながら、背もたれが高めのゆったりしたソファに身を任せた。
前にコトリとグラスが置かれて視線をあげれば、カウンターから身を乗り出した店員のウインクとかち合う。
「お嬢さん、初めてかな?かわいいからサービス」
「えっと。…あはは、ありがとうございます」
「俺には?」
「お前は常連だろ、普通に頼めよ」
「ケチかよ」
ナチュラルに隣に座り直した先輩の口ぶりからして、二人は気の知れた知人のようだ。
店内には結構な音量でBGMが流れており、隣でも少しでも距離があくと完全には会話は聞き取れない。
「…バーだし、ジュースではないかな」
置かれたグラスの中にはクリアピンクが揺れており、香り的にはピーチ系のカクテルのようだった。
今日は車ではないし、アルコールには弱くはない。
多少は大丈夫だろうと少し口に含みながら、二人の雑談を見守った。
とりあえずどうやって彼に切り出すかが問題だ。
附属のさふらんぼを齧ったあたりで、会話が一段落したらしい。
「じゃあ俺は退散するよ。ごゆっくり」
こちらにも聞こえるように少し大きめの声を張り上げた店員が背を向けると、一人分空いていた空間が半分ほど詰められた。
「?…」
少し近いような気もするが、この聞こえにくい環境だ。
会話をするにはこれくらいの距離感が普通なのかもしれない。
万が一何かあったとしてもカウンター席で店員も目の届く範囲にいるし、問題ないだろう。
とりあえず世間話から…と唇を開き掛けたが、ある事項に気付いて首を傾げた。
すかさず相手も気付いて同じ角度に傾ける。
「ん?どうかした?」
「いえ…あの、先輩左利きなのに右利きの私が左側に座って大丈夫ですか?」
場所変わりましょうか。
ごく当然のように言われた台詞に、男が固まる。
その反応に慌てて手を振って付け足した。
「ああ、そういえば書き物とかは右でしたもんね。こういうときも問題ないか、余計なこと言いました」
「いや…飴凪さんの言うとおり普段は右を心がけてるんだけど、どうして左利きだって?」
「髪直すときとか飲み物あけるときとか、無意識レベルの時は左が出ていたので。でも両利きってやっぱり努力の塊ですよね。私は左を使ってみようと思っても全然ですよ」
前髪を揺らして笑う雅に、何かを懐かしむように双眼が細められる。
「本当に、君は昔から変わらないな…」
「…え?」
大きな声でもないのに耳に残るのは彼のこの声のせいだろうか。
独特の、少し掠れたような。
学生時代のアルバイト仲間にそっくりで、初対面の時にぽろりと言ってしまったことを思いだす。
『−あ、すいません。知人にあまりに声が似ていたので…つい耳を澄ましちゃうような素敵な声質ですよね』
あのときも、驚いたように目を見開く姿が知人に重なってつい笑ってしまった。
苗字も違う上、体格から顔立ちまでまったく面影もなかったため他人だろうと判断したが、再びそれが覆されようとしているのか。
うつむき加減で照れたように笑う、左利きのバイト仲間が頭を過る。
まさか。
「ーーさん…?」
一種の特技で、人の顔や名前は忘れたことがない。
記憶上の名前を引っ張り出せば、恍惚とした瞳が笑った。
「…そうだよ。再会だけでも奇跡だと思ったのに、君が覚えていてくれたなんて夢みたいだった」
「うそ。だって、」
「ああ、別人だろう?苗字は親の再婚でね。身体は死に物狂いでしぼったよ。顔は整形したんだ。たった一言でコンプレックスを武器に変えてくれた…世界を変えてくれた、君に釣り合う男になるために。戻ったときには君はもういなくて絶望したけどね。勇気を振り絞ってでも連絡先は聞いておくべきだった」
ハイになっているのか、口を挟む隙も与えてくれない。
口早にまくし立てる彼に気圧されるが、驚いている暇はなかった。
困惑する思考を必死にまとめあげる。
彼が自分の知り合いで、話の内容からするに己に好意を寄せてくれているというのであれば。
あの脅迫状の差出人はもはや確定で、目的もしぼられる。
「でもまた会えたんだ!やっぱり俺達は一緒にいられる運命なんだよ!」
身を乗り出しぎみの彼に、制止の意味も込めて軽く両手を挙げた。
「先輩、私も再会自体は嬉しいですよ」
「!」
「お話し中に遮ってごめんなさい。失礼承知で確認したいことがあります。勝手な憶測なので間違っていたら言ってくださいね」
一息置いてから、真剣に見つめる。
これから言う台詞は、確実にこの場の空気を変えてしまうだろう。
「…五条に関する脅迫状は、全て先輩が送ってきたんですか?」
ぴたり。
刺激しないようにゆっくりと確認するが、やはり今までの饒舌さが幻のように彼の動きが止まる。
数秒間待ってみるが、何か考えているのか反応がなかった。
暗めの照明のせいで、カウンター席にも関わらず目元が隠れて表情が読みにくい。
仕方なく、肯定と仮定して様子をみながら言葉を続ける選択をした。
「お気持ちは嬉しいですが、周りを巻き込む形は困ります。まあ先輩の配慮で五条にも結局被害はなかったみたいだし大ごとにもなっていないし…。今回の件は私と話したかったからってことで合っていますか?」
仕事でもプライベートでも始終五条がべったりだったから、あの状態では奇跡の再会で昔を懐かしもうにもこんな機会はとれなかっただろう。
「あんな凝ったことをしてわざわざ五条と引き離さなくても、言ってもらえればこうして時間をとることくらいできますし…」
「ー。そう、五条だよ…折角再会できたのに、あの男に全て奪われた!君との時間も、君の笑顔も優しさも!隣にいるのは俺のはずだったのに…!」
「っわ、え!?」
いきなりスイッチが入ったかのようにヒートアップした相手に反射的に仰け反ったため、バランスを崩した。
壁に肩が当たった体勢で、更に迫る身体に思わず両手で押し返す。
「っちょっと待っ、…え」
しかし、思うように力が入らずに困惑した。
意識ははっきりしているのに、この妙な気怠さ。
急すぎる体調変化の原因として思い当たるのは先ほど出されたカクテルしかないが、後悔してもどうにもならない。
「頼む、五条とは別れてくれ」
圧迫される両肩に、顔が急接近してくれば流石に何をされようとしているかは理解した。
「っや…ッ五条…!」
ぎゅと閉じた世界で無意識に何かを叫んだ刹那。
「っぐ!?」
くぐもった声と、不意に消えた圧迫感。
恐る恐る視界を開けば、頭を占めてやまない姿がそこにいた。
男の首を腕で羽交い締めにしながら、片手で無造作にイヤホンを外す。
「ー呼んだ?三日ぶり、雅さん」
不機嫌丸出しで笑う五条に、違う意味で血の気が引いた。
今まで以上に離してあげない