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きっと世界で一番冷たくて悲しい口づけだった



 カランカラン。

 客を知らせる音に店に出た雅は、見知った顔に口元を緩めた。



「やあ」

「夏油君、六日ぶりかな。やっぱり今日もひとりなんだ?」



 彼と、彼の親友。
 以前は二人揃って尋ねてくるのが常であったが、いつからか各々ひとりで顔を見せるようになった。
 お互いのことを喋る二人の話を聞く限り、喧嘩をしたわけではないらしい。

 だから、そう尋ねたのはただの純粋な疑問だった。



「ー少し、雅の顔が見たくてね」



 答えになっているようで、全然別の回答。
 柔らかく微笑む姿はいつも通りなのに、どこかはぐらかす態度に胸騒ぎがした。



「…そっか。なんか飲んでく?奢るけど」

「ありがとう、気持ちだけいただいておくよ」



 やんわり片手で制した夏油は、そのまま人差し指を立てる。



「…雅。“これ”視えるかい?」



 彼の指先を中心としてずくずくと黒い靄のようなものが漂い、更に目玉なんかもついているため思わず凝視した。
 ぼそぼそと何か呟いているようだが、さすがにこの距離ではそこまでは聞き取れない。

 夏油と五条と家入が命の恩人になったあの日、死の淵を彷徨ったあの時から、雅の視る世界は変わった。
 色々説明は受けたし、彼らと一緒の学校に入らないかという話も出たが、たった一人の弟のために今まで通りの生活を選んだ。

 元々店の常連だった二人に教えて貰って、呪霊を無視することや、いざというときの簡単な対応などの基礎も身につけている。
 しかし、夏油がわざわざ雅に対して自分の術式を見せることは今までに一度もなかった。

 全く意図の読めない言動に首を傾げるが、見えているモノはしょうがない。



「えっと?うん、まあ。一応見えるけど…ペットだったりするの?何言っているかまでは分からないよ」

「ーああ、充分だ。やっぱり君は非術師とは言えないな。呪術師の素質があるからね」

「…待って。話が掴めない、いつもみたいに私にも理解できるように話してほしい」



 不意にざわざわと大きくなる焦燥感に、思わず彼の方に近寄った。

 穏やかで優しくて正しくて、そんな彼はいつだって雅に分かりやすく伝えてくれる。
 彼らしくない、脈絡のない会話に違和感しかない。

 一人ずつの彼らを見る度、何かが変わってきていることは薄々感じていた。
 自分にどうこうできる問題ではないことも分かっていて、それが酷くもどかしい。



「夏油君が何を考えているとか全然分からないけど、いつも通りがなくなる気がするの。不安でしょうがないから・・・」



 どうか気のせいだと笑って。

 必死の思いで見上げれば、説破詰まったような、全てを諦めたような、それでいて尚希望に縋るような。
 そんな眼差しに縛られた。



「雅」



 いち音いち音が、脳にやたらと執着する。
 まるで呪いだ。



「悟を、独りにしないでくれ」



 静かに笑みすらたたえて吐いている言葉なのに、なぜこんなにも泣きたくなるのか。

 どんな想いで、私にこんなことを言っているの。

 震える唇を叱咤して、負けじと微笑み返してやる。



「…夏油君は?」

「私には、家族がたくさんできたからね」

「違うよ。五条君には夏油君がいる。硝子ちゃんも」



 彼のしようとしていることは全くわからないけれど、彼の居場所が変わろうとしていることだけは察してしまった。
 そしてもう、此処に姿を現すこともなくなるのだろう。

 涙でぼやけはじめていた世界がとうとう夏油さえ歪ませて、反射的に瞼を閉じた。



「ーああ、そうだね。君と硝子がいてくれれば大丈夫だ」



 真っ暗な世界で、額に触れた温度。
 背の高い彼のことだから、かなり屈んでくれているに違いない。

 これが日常だったなら、顔に熱が集中してみっともないくらいに動揺したのだろう。
 なのに、今はただ涙が溢れるだけで、見納めになるであろう姿すら焼き付けることができない。

 離れる体温、遠ざかる気配に固く指先を握りしめた。






きっと世界で一番冷たくて悲しい口づけだった

(連れ去りたい反面、そのままでいてほしいと願う私がいる。…違うな、ただ君に失望されたくないだけなのかもしれない)
(聞かなくちゃ、止めなくちゃいけないのに。自分の信念が、感情が揺らぐのが恐いから踏み出せない。なんて弱い私)

さよなら、世界。


2021/02/03


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