そうしてヒーローは今日も私をさらった
◇
ああ、しまったな。
知り合ってまだ日の浅い男のにやつく顔に、雅は心底後悔した。
冷たい壁を背中に感じながら、先日の恋人との会話が自動的に脳内で甦る。
『ーねえ雅、今日偶々見かけたんだけどさ。昼に集団でファミレス入ってたよね』
『うん?ああ、職場のみんなでご飯食べたね。なに、今日は五条さんもあの辺にいたんだ』
『うんまあ、ちょっと見回りでね。ちなみに、あの中にいた茶髪の眼鏡かけたやつは同僚?』
『えーっと茶髪に眼鏡…ああ。あの人は外部の人だよ、取引先の。最近一緒の仕事が多くて』
『ふーん。あんまり人間関係に口出す気はないけど、アイツはダメ。絶対二人きりにはならないように気をつけてね』
『?うん、分かった』
何か彼の仕事に関わる系の気をつけてだと勝手に解釈して、人並み以上には感じ取れる自分が特に変な感じも受けなかったから油断していた。
どうやら呪霊関連の注意喚起ではなかったらしい。
人気がないことをいいことにグイグイ近づいてくる男の顔を両手で必死に抑えるが、恐怖でうまく力が伝わっていない。
「っ…あの、これ以上は本気で訴えますよ…!」
「訴える?いやいや実績的にどっちが会社に優先されると思ってんだよ。もみ消されて終わりだよ」
見下したように歪む瞳に憎悪がわき上がるが、だからといっていきなり力が強くなったり状況が改善するわけでもない。
押し退けようと相手の口元に当てている手を無雑作にがっつり掴まれ、心底面倒くさそうに悪態を吐かれた。
「ったく別にいいだろキスのひとつやふたつ。減るもんでもねぇのに」
「っ、いや減ります主に精神力が…!」
「はいはい意味わかんねーから。っはー、ったくめんどくせぇな出し惜しみしやがって…そこまでの価値テメェにあると思ってんのかよ」
「っ…!っ、」
もうこの際、捨て身で頭突きでもしてやろうか。
不条理に押し付けられる言葉のオンパレードはどうしようもなく頭にはくるが、唇を死守するので精一杯だ。
そのため、いきなり降って湧いた声の認識と解析に時間がかかった。
「ーいやぁ価値はあるでしょ普通に」
「…ああ?」
ドカァアアアッ
いきなり消えた圧迫感と、姿の見えない相手、直後の衝撃音。
思わずしゃがみ込んで吹き上がる土煙から顔を庇っていると、近くに見知った気配が立った。
「僕ですら毎回ありつくまでに結構な労力使ってんのに、ポッと出の君が出来るわけないでしょ。なめてんの?」
全身黒づくめに、目隠しで逆立てた特徴的な髪型。
この人を見間違えるわけがない。
「…え?五条さん…?」
「うんうん、助けに来たよー。雅ってば、だから言ったのにまんまと二人きりになっちゃって」
「それは申し訳ないけど…え、なんで」
こんなところに。
先ほどの恐怖も忘れてきょとんと見上げるが、五条が答える前に罵声が飛んできた。
「っおいテメェ、ごほ!こんなことして、…ハァ、っタダで済むとっ…思ってんのか…!?」
恐らく蹴りか何かで吹っ飛ばされたであろう男が息も絶え絶えに喚くが、大袈裟に溜息を吐き出した五条が静かに唇を開く。
「いやそれこっちのセリフ。寧ろその程度で済んでよかったね。自分が一般人であることに感謝しなよ。ー…君がこっち側の人間だったら確実に手足吹っ飛んでるから」
「ヒィ!?」
明らかにトーンの下がった声質に合わせて、その場の空気もどんより濁った。
鈍感そうな一般人でも、さすがに五条の異質な雰囲気には察するものがあったらしい。
ボタボタ落ちる鼻血もそのままに、男は這いつくばるようにその場を後にした。
「ー…っ、」
その背中が見えなくなったあたりで、一時的に抜け落ちていた感情が一気にぶり返す。
普通に仕事関連の会話をしていたはずなのに、いきなり態度が豹変して強い力で抑えつけられた時の絶望感といったら。
触られたところも、仕方がないとは言えこちらから触ったところも気持ちが悪い。
ぐるぐるかき回されるような感情と格闘していると、不意に唇にあたる温度。
「…え?」
いつもに比べて短すぎるそれに、見開いた瞳からぽろりと水が零れ落ちた。
いつの間に目隠しをとったのか。
視界いっぱいに広がるのは恋い焦がれて止まない碧眼で、あまりの近さに息が詰まる。
口付け時の一瞬だけ覆われていた両耳が解放されるなり、パクパクと音を空振りしながら問い詰めた。
「い、今…!」
「うん、したよ。で、どこ触られた?」
「どこって、えっと…」
いつもよりやや低く感じる声が耳元で落とされるせいで、まあ頭が回らないにも程がある。
先ほどとは違う意味でぐちゃぐちゃになった頭で見つめていると、不敵に唇を歪めた五条がするりと雅の右手を攫った。
「ーああ、こっちの手でアイツの顔抑えてたんだっけ?」
「ちょ、っと…!」
ちゅ、と手のひらに唇が寄せられてゾクゾクと何かが背中を駆け上がる。
そのまま指先やら手首やらにも唇が滑り、このままでは心臓がもたないと反射的に抗議した。
「っ…もういいから、離して!」
生理的に出てきた涙をどうとったのか。
少し怒りを湛えた双眼と視線が絡んだ。
「ーあのさ、雅。初見の僕でも分かる程度にはあからさまだったでしょ、彼の君への態度」
「…ついさっきまでは普通に喋ってたよ」
見られるのが居たたまれなくなって視線を外すが、逃げるなよ。と顎を捉えられれば再度見つめ返すしかない。
「男ってのはそういうもんなの。これに懲りたらむやみに二人きりにはならないこと」
「…五条さんは?」
「もちろん僕は別枠だよ」
二人きりいつでもどこでも大歓迎!
今までの雰囲気はどこにいったのか。
ぱっと手を離されたかと思うと、一気に温度が離れて軽く身震いした。
彼との距離が空いたことに、安心半分、寂しさ半分だ。
雅の見守る中で目隠しを元の位置に戻したのち、未だに座りこむ彼女の腕をひいてその体重を支えながら立たせる。
乾いた涙の跡を軽く親指で拭うと、よっこいしょと華奢な身体を横抱きにした。
もう抵抗する体力も気力もないため大人しくされるがままになっていると、軽い調子で切り出される。
「一方的に説教しちゃったけど、実は謝らないといけないこともあるんだよね」
「?」
「雅があまりに危機感がないからさ、教訓にと思ってちょっと様子みてた。すぐに助けに入らなくてごめん」
「えー」
「いや、雅が助けを求めたら即入るつもりだったんだよ?全く強情っぱりなんだからー。ま、結局我慢できずにフライングしちゃったわけだけど」
「はあ」
「ムカつきすぎて危うく術式使っちゃうところだったよ」
あはは危ない危ないと笑いながら伝えられた事実は、多分怒っても罰は当たらない内容だ。
ただ、今回のことは自業自得だし、まだ彼に助けて貰ったお礼すら言っていないことに気が付いた。
ぎゅっと服を握りこむと、何か言いたげな様子を察してくれたらしい。
「ん?さすがに怒っちゃった?」
「ううん、助けに来てくれてありがとう。やっぱり五条さん以外に触られるのはあんまりだって分かったから、次からは気をつけるね」
「…、」
急に黙り込んだ五条に、ふと嫌な予感がよぎった。
経験上、この真剣な表情での沈黙は危険信号だ。
ろくな事を考えていない。
「…五条さん、一応聞くけど。何考えてる…?」
「いや、大したことじゃないよ。今日はさすがにこのまま送り届けてあげようと思ってたんだけど、予定変更かなって」
キリッと返された言葉に、思わず明後日の方向をみる。
「ちなみに変更先は」
「僕の部屋」
「いやいやいや今日は休ませてください切実に」
「やだ」
語尾にハートがつきそうなルンルン具合に、涙を呑んだ。
そうしてヒーローは今日も私をさらった
(ちなみに彼が目の前に現れることはもうないから安心して仕事していいよ)
(なにそれ五条家こわい)
夢心地、そらをとぶ。
2021/02/01
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