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甘甘、ビターで召し上がれ



 ふう。

 軽い深呼吸を数回後。
 最後に大きめに息を吐き出した雅は、意を決してドアノブに手を掛けた。

 無機質なそれを捻れば漏れる光。
 薄暗さに慣れていた視界にはやや刺激が強く、少し目を細めた瞬間ー。



「んげ!?」



 己の手からぱしりと音がしたかのが先か、手首に温度を感じたのが先か。
 相変わらず早すぎて、頭も身体もついていかない。

 気が付けば部屋の中に踏み込んでいて、後ろで扉が閉まる音がした。
 クックと喉で笑うような気配の主に会いに来たのだから、今更驚くこともない。

 ゆっくり振り返ると、黒い布の奥で愉快そうに細まる両眼にじとりと視線を送りかえす。



「遅くなってごめん五条さん。お邪魔します」

「相変わらず色気も何もないね、雅は」

「いや、人って案外本気でびっくりしたらあんなもんだから」

「またまたぁ、僕のスキンシップなんてもう慣れたもんでしょ」

「心臓に悪いのには変わりないんで。そしてスキンシップとは」



 毎度のことのように急に手やら腕やらを引っ張っては瞬時に離れるこの嫌がらせじみた行為のことだろうか。
 やや恨みのこもった上目遣いをしてみるが、いつも通りのへらりとした笑みが降りてくるだけだ。

 促されてソファに向かいながら、雅の脳内はイメージトレーニングで忙しかった。
 鞄を握る指先に力がこもる。

 今日は所謂バレンタインで、もちろんこの男にもチョコを持ってきたわけだが。
 仲良くして貰っている高専のメンバーたちにはすんなり渡せた。
 しかし本命となると、やはり心の準備が必要である。

 教師である以上五条も同じ時間帯に校内にいたわけで、他の高専関係者に渡せるということは彼にも充分渡すチャンスはあった。
 しかし出会う度に、気恥ずかしくなった彼女はあれやこれや話題を滝のように出しては用事を思いだしたといって嵐のように去る始末。

 それを数回繰り返して心が折れた雅は一旦落ち着くために高専を後にして、五条の仕事が終わってから連絡をいれた。

 お互い向かい合わせに腰を落ち着けると、準備してあったペットボトルのお茶を雅の前にずらしながら、五条が僅かに首を傾ける。



「で、用事って?僕から行くって言ったのにわざわざ来るなんてよほど重要な話なのかな。近いとはいえこんな時間に出歩くとか、君に何かあったら泣いちゃうよ」

「べ、つに…1分もかからないし。完全に私の都合だから五条さんを動かすのは申し訳ないと思っただけで。あと、しらじらしい」



 結局頭もろくに回らず、鞄に突っ込んだ手をテーブル上に移動させるので精一杯だった。
 ことりと置かれた四角い箱に、沈黙が落ちる。


 え、なにこの空気。


 聡い彼ならー否、彼でなくても今日の日付でこの流れならこれがチョコだと分かるはずだ。
 甘党だからチョコが苦手なわけはないし、第一彼はその端麗な容姿で、素顔を晒してしまえば初見で一目惚れされやすい。
 高専関係の義理などを含めても、チョコレートはいくつかはもらっているだろう。

 もう有り余っているから要らないということだろうか。
 こんなことなら一番に渡してしまえば良かった。

 色々な思考と後悔がグルグル回って、顔を上げられない。
 心まで冷えてきて、無意識的に、箱に掛けたままだった指先を握りこんだ。

 そのまま自分の元に引き戻してしまおうとピクリと爪先が震えた刹那。



「あーハイハイ、待ってたよーチョコ。もちろん既に沢山もらったけど。なんたって僕だし」



 間延びする陽気な声に、己の手ごと箱を覆い被す温度。
 がっちりホールドされた手は引くことも押すこともできない。


 いやこれはこれで困るんですけど!


 普段は一瞬で離れる体温が目の前で自分のそれと混じり合う様に、一変して沸騰しそうだった。
 先ほどとは違う意味で顔を上げられなくなった雅を試すように、ふと空気が動く。



ーそれで?

「っ…」



 鼓膜を揺らした音は、間違いなく彼の声のはずなのに。
 なぜか、耳にこびりついて離れない。



「他の連中には昼間に渡しまくっていたみたいだけど」



 次の言葉が入ってこない。
 どうにも聞き慣れない感情の色が混じっているように感じて、考えるより先に目線を上げた。

 しかし、その先に求める姿はない。



「…え?」



 いきなり視界からフィードアウトした相手に、ただでさえ働かない思考が仕事放棄しそうになるが、それすらも許してもらえないらしい。

 いつの間にか消えていた温もり、圧、自由の身になった両手ー、


 反転した視界と陰る世界。



「は…、ええ?」



 柔らかなソファに難なく沈む自身の上半身と、触れるか触れないか程度の空気の摩擦に困惑する。
 いつもは隠れている碧が真っ直ぐ己を射抜いている現状が、うまく呑み込めない。

 一瞬で雅の隣に移動した五条が軽く肩を小突いて上に覆い被さったのだが、彼女は目を離さないこと以外にできることがなかった。


 こんな綺麗な青、反則だ。


 美しいものへの感動なのか、処理しきれない現状に対してなのか、知らない彼の一面への恐怖か。
 訳も分からず熱を持ちぼやけ始める目元に、僅かながら意識が戻った。
 しかし雅が口を開くより先に、スルリと五条の指が雅の指を絡め取る。

 悪戯に引っ張るくらいしか触れてこなかった彼からは有り得ない、艶めかしい雰囲気に、やっと危険を感じ取った雅の思考がフル回転をし始めた。



「ちょっ、と五条さん…?この体勢は色々まずいような…」

「僕の所には日付変更ギリギリになったその理由を聞こうか」

「おーい五条さん?あの、私そろそろお暇しないと…」

「理由によっては今日は帰してあげられないけど、まあ問題ないでしょ」



 いやもう疑問形ですらないんですけど。


 諦めたように抜けた全身の力に、彼の唇が三日月に歪んだ。








甘甘、ビターで召し上がれ


(いやだってむり、すき)
(おかげさまで嫉妬でどうにかなりそうだったよどうしてくれんの)

あま、にが。

2021/01/23


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