◇
ふわり。
鼻腔を掠めた香りに、不二はふと瞳を細めた。
その手が作業を止めたことに気付いた黒目が不思議そうに瞬く。
「…どうかした?」
「ああごめん、大したことじゃないよ。飴凪さんから優華と同じ匂いがしたから」
「え…?あ、昨日優華ん家に泊まったからかな。シャンプーとか?」
「そうなんだ」
にこりと普段通りの柔和な笑みがその端正な顔を彩った。
しかし、現在彼と対話する彼女はずば抜けて洞察力に長けている。
ふと掠めとった違和感に、くすりと笑いをこぼした。
「やだなあ不二君、もしかして嫉妬してる?」
「…そう見える?」
「見える見える。心配しなくても優華は不二君一筋だから」
昨日はただの女子会ね。
大人しい彼女にしては珍しい冗談めいた口調で、口元からは悪戯っぽく小さな八重歯が覗く。
そんな雅に、不二もクスッと柔らかい表情を返した。
「本当に鋭いね、飴凪さん」
−大当たりだよ、
…半分は。
心中でも同様に温和な口元を作り出す。
元々、自分の真の感情を察知できる人間は極僅かだ。
その中でも当たり前のように本心を感じ取ってしまう雅は、不二にとって重宝するべき存在で、また同時に警戒の塊でもあった。
ぱちり。
作業を再開し始めた白い指に、意識を引き戻す。
睫毛を下ろした雅の唇から、まるで台本のようにスラスラと台詞が流れ出た。
「昨日も不二君の話ばっかりだったんだよ」
「本当に嬉しそうに話すんだから」
「大事にしてあげてね」
やんわりと唇の形を和らげる彼女は、気付いているのだろうか。
いつもより多い瞬き。
少し頭を傾ける動作。
乱れてもいないのに耳に髪をかけ直す仕草。
−本心を隠す時の彼女独特の癖が、出てしまっていることに。
「…、もちろん。優華を泣かせたら飴凪さんが怖いしね」
「ふふ、優華が泣きついてきたら奪い返しちゃうから」
「安心して。責任を持って幸せにするよ」
「不二君だもん、そこのところは心配してないけどね」
「うん、期待に応えられるように頑張ろうかな。今があるのは飴凪さんのおかげだよ、ありがとう」
「ううん、私は何も…−」
−ああほら、また髪を直してる。
自分の癖を見抜かれていることなど、彼女はきっと知らないだろう。
無知のままいつも通りの顔を繕う雅に、はやる心臓を制御する。
彼女の気持ちには、気付いていた。
“自分と同様の”それに気付くのは容易かった。
ただ、雅には何者にも代え難い友達がいて、その友達が不二に恋心を抱いてしまっただけの話だ。
ガタン。
音をたてて、漆黒が空気に舞った。
視線をあげれば相変わらず真っ直ぐな瞳にかち合う。
「−ほら、そろそろ時間だよ?もう終わってるし先生には私から渡しとくから」
「…そうだね、あまり待たせられないしお願いしてもいいかな。また今度何か奢るよ」
「ありがと。優華によろしくね」
「うん、飴凪さんも帰りは気を付けて」
さらりと空気に晒される栗色の髪を見送る。
彼が扉の向こうへ消えると、シンと重い空気が空間を満たした。
はらりと雅の耳から流れた横髪が頬を滑る。
「−…ばかだな」
意識するでもなく自嘲が顔を覗かせた。
自分で決めて、進んだ道なのに。
いつもひとりになった瞬間に後悔が胸を占める。
大切な親友と、大事な想い人。
どちらをとることもできなくて、結局二人とも手放してしまった。
否、嫌われるのが怖かっただけだ。
彼をとって、彼女から。
彼女を独占して、彼から。
笑顔以外の顔を向けられることに怯えた臆病な自分。
どちらにも想いを伝えることなく、これからも伝える気はない。
つき合う二人を見守って、
結婚を見届けて、
あわよくば赤ちゃんを抱ければ嬉しい。
ふっと緩んだ口元をひとつ、粒が通過した。
「−…うん、ばかだよね」
−君も、僕も。
閉めた扉のすぐ横で、不二は壁に全てを預けて呟いた。
窓を覗けば、きっと“いつも通り”の姿があるに違いない。
小さい背中、震える肩、肩から滑り落ちる髪。
過去に、現在に、これからの未来に、全てに耐えて涙する姿があるだろう。
すぐに駆けつけて抱きしめて、僕も同じなんだと伝えてしまいたい。
全てを奪ってしまいたい。
手の届く位置にあるのに、条件は揃っているのに。
―何度か、かまを掛けてみたことがある。
『ごめん、ちょっといいかな。彼女について相談があるんだけど…』
『飴凪さんは、好きな人とかはいないの?』
『彼女に、告白しようと思うんだ』
自分に好意があることを確信している彼女の親友に、第三者から見ても明確であろうアプローチをかけた。
優しい彼女が、自分と親友どちらをとるのか。
残酷だと知りながらも好奇心に打ち勝てず、天秤にかけさせた。
そのたびに返ってきたのは、喜びと悲しみを足して、嘘で割ったような笑み。
『−優華のことが、好きなんだね』
違うと、叫びそうになる唇を頑なに閉じた。
『−うーん、好きな人というか…大切な人って言うなら優華が一番かな』
そんな答えを、聞きたかったわけではなくて。
『−お似合いだと思うよ』
君をこれほどまでに憎いと思ったことは、ない。
手を伸ばしてこない彼女が、気持ちを封じてしまう彼女が、心から憎らしかった。
愛と憎しみは表裏一体と言うけれど、まさにその通りだ。
少し人見知りな雅はみんなに平等に同じ笑顔を向ける。
その中でただひとり、彼女の本来の表情が見られる位置にいる女の子が羨ましかった。
雅の自分への気持ちを確信してからは期待もしたけれど、必死の思いで近づいてやっと見られるようになった笑顔は、彼女の親友に対するものと同じ。
渇望していたそれが、心を満たしてくれることはなかった。
−それじゃあ満たされない。
−僕以外にも向けるものなら、いらない。
何か、“自分だけの特別”が欲しかった。
こんなにも自分が欲張りだったなんて知らなかった。
今の僕だけが優しい彼女から引き出せるもの。
それは…−、
「…ごめん優華、待ったかい?」
「大丈夫、それより雅ちゃんは?今日一緒に日直だったんでしょう。仕事押し付けてきてないでしょうね」
「うーん、最後は少し甘えちゃった、かな」
「もー、周助も雅ちゃんが優しいのは知ってるでしょ!」
「−…、そうだね、今日も笑って送り出してくれたよ」
いつも通り、雅よりも幾分高いであろう温度に触れながら。
先ほどまでの彼女と同じ香りに、顔を埋めながら。
少しだけ、ほんの少しだけ悔しそうに、眉をひそめて笑った。
その笑顔は誰かのもの、その涙は僕のモノ
(嘘、ほんとは二人が戻ってきてくれることを何より願っているのに)
(君に伝える日はこないだろうけど、ずっとずっと“愛してる”)
ぱたりぽたり、落ちた雫はすり抜けて。
ふわり。
鼻腔を掠めた香りに、不二はふと瞳を細めた。
その手が作業を止めたことに気付いた黒目が不思議そうに瞬く。
「…どうかした?」
「ああごめん、大したことじゃないよ。飴凪さんから優華と同じ匂いがしたから」
「え…?あ、昨日優華ん家に泊まったからかな。シャンプーとか?」
「そうなんだ」
にこりと普段通りの柔和な笑みがその端正な顔を彩った。
しかし、現在彼と対話する彼女はずば抜けて洞察力に長けている。
ふと掠めとった違和感に、くすりと笑いをこぼした。
「やだなあ不二君、もしかして嫉妬してる?」
「…そう見える?」
「見える見える。心配しなくても優華は不二君一筋だから」
昨日はただの女子会ね。
大人しい彼女にしては珍しい冗談めいた口調で、口元からは悪戯っぽく小さな八重歯が覗く。
そんな雅に、不二もクスッと柔らかい表情を返した。
「本当に鋭いね、飴凪さん」
−大当たりだよ、
…半分は。
心中でも同様に温和な口元を作り出す。
元々、自分の真の感情を察知できる人間は極僅かだ。
その中でも当たり前のように本心を感じ取ってしまう雅は、不二にとって重宝するべき存在で、また同時に警戒の塊でもあった。
ぱちり。
作業を再開し始めた白い指に、意識を引き戻す。
睫毛を下ろした雅の唇から、まるで台本のようにスラスラと台詞が流れ出た。
「昨日も不二君の話ばっかりだったんだよ」
「本当に嬉しそうに話すんだから」
「大事にしてあげてね」
やんわりと唇の形を和らげる彼女は、気付いているのだろうか。
いつもより多い瞬き。
少し頭を傾ける動作。
乱れてもいないのに耳に髪をかけ直す仕草。
−本心を隠す時の彼女独特の癖が、出てしまっていることに。
「…、もちろん。優華を泣かせたら飴凪さんが怖いしね」
「ふふ、優華が泣きついてきたら奪い返しちゃうから」
「安心して。責任を持って幸せにするよ」
「不二君だもん、そこのところは心配してないけどね」
「うん、期待に応えられるように頑張ろうかな。今があるのは飴凪さんのおかげだよ、ありがとう」
「ううん、私は何も…−」
−ああほら、また髪を直してる。
自分の癖を見抜かれていることなど、彼女はきっと知らないだろう。
無知のままいつも通りの顔を繕う雅に、はやる心臓を制御する。
彼女の気持ちには、気付いていた。
“自分と同様の”それに気付くのは容易かった。
ただ、雅には何者にも代え難い友達がいて、その友達が不二に恋心を抱いてしまっただけの話だ。
ガタン。
音をたてて、漆黒が空気に舞った。
視線をあげれば相変わらず真っ直ぐな瞳にかち合う。
「−ほら、そろそろ時間だよ?もう終わってるし先生には私から渡しとくから」
「…そうだね、あまり待たせられないしお願いしてもいいかな。また今度何か奢るよ」
「ありがと。優華によろしくね」
「うん、飴凪さんも帰りは気を付けて」
さらりと空気に晒される栗色の髪を見送る。
彼が扉の向こうへ消えると、シンと重い空気が空間を満たした。
はらりと雅の耳から流れた横髪が頬を滑る。
「−…ばかだな」
意識するでもなく自嘲が顔を覗かせた。
自分で決めて、進んだ道なのに。
いつもひとりになった瞬間に後悔が胸を占める。
大切な親友と、大事な想い人。
どちらをとることもできなくて、結局二人とも手放してしまった。
否、嫌われるのが怖かっただけだ。
彼をとって、彼女から。
彼女を独占して、彼から。
笑顔以外の顔を向けられることに怯えた臆病な自分。
どちらにも想いを伝えることなく、これからも伝える気はない。
つき合う二人を見守って、
結婚を見届けて、
あわよくば赤ちゃんを抱ければ嬉しい。
ふっと緩んだ口元をひとつ、粒が通過した。
「−…うん、ばかだよね」
−君も、僕も。
閉めた扉のすぐ横で、不二は壁に全てを預けて呟いた。
窓を覗けば、きっと“いつも通り”の姿があるに違いない。
小さい背中、震える肩、肩から滑り落ちる髪。
過去に、現在に、これからの未来に、全てに耐えて涙する姿があるだろう。
すぐに駆けつけて抱きしめて、僕も同じなんだと伝えてしまいたい。
全てを奪ってしまいたい。
手の届く位置にあるのに、条件は揃っているのに。
―何度か、かまを掛けてみたことがある。
『ごめん、ちょっといいかな。彼女について相談があるんだけど…』
『飴凪さんは、好きな人とかはいないの?』
『彼女に、告白しようと思うんだ』
自分に好意があることを確信している彼女の親友に、第三者から見ても明確であろうアプローチをかけた。
優しい彼女が、自分と親友どちらをとるのか。
残酷だと知りながらも好奇心に打ち勝てず、天秤にかけさせた。
そのたびに返ってきたのは、喜びと悲しみを足して、嘘で割ったような笑み。
『−優華のことが、好きなんだね』
違うと、叫びそうになる唇を頑なに閉じた。
『−うーん、好きな人というか…大切な人って言うなら優華が一番かな』
そんな答えを、聞きたかったわけではなくて。
『−お似合いだと思うよ』
君をこれほどまでに憎いと思ったことは、ない。
手を伸ばしてこない彼女が、気持ちを封じてしまう彼女が、心から憎らしかった。
愛と憎しみは表裏一体と言うけれど、まさにその通りだ。
少し人見知りな雅はみんなに平等に同じ笑顔を向ける。
その中でただひとり、彼女の本来の表情が見られる位置にいる女の子が羨ましかった。
雅の自分への気持ちを確信してからは期待もしたけれど、必死の思いで近づいてやっと見られるようになった笑顔は、彼女の親友に対するものと同じ。
渇望していたそれが、心を満たしてくれることはなかった。
−それじゃあ満たされない。
−僕以外にも向けるものなら、いらない。
何か、“自分だけの特別”が欲しかった。
こんなにも自分が欲張りだったなんて知らなかった。
今の僕だけが優しい彼女から引き出せるもの。
それは…−、
「…ごめん優華、待ったかい?」
「大丈夫、それより雅ちゃんは?今日一緒に日直だったんでしょう。仕事押し付けてきてないでしょうね」
「うーん、最後は少し甘えちゃった、かな」
「もー、周助も雅ちゃんが優しいのは知ってるでしょ!」
「−…、そうだね、今日も笑って送り出してくれたよ」
いつも通り、雅よりも幾分高いであろう温度に触れながら。
先ほどまでの彼女と同じ香りに、顔を埋めながら。
少しだけ、ほんの少しだけ悔しそうに、眉をひそめて笑った。
その笑顔は誰かのもの、その涙は僕のモノ
(嘘、ほんとは二人が戻ってきてくれることを何より願っているのに)
(君に伝える日はこないだろうけど、ずっとずっと“愛してる”)
ぱたりぽたり、落ちた雫はすり抜けて。