◇
ザアザアと、水が屋根を打ち鳴らす音が染み渡る。
外を見れば、窓が絶え間なく大粒の涙を流していた。
これは誰の心境だろうか。
そっと自嘲の笑みを浮かべるが、それは誰に届くこともなく空気に消える。
ガチャリとドアノブが捻られる気配が耳に届き、不二はゆっくりとそちらに顔を向けた。
「ごめん、お待たせ不二」
「そんなに待ってないから大丈夫だよ」
申し訳なさそうに顔を覗かせた彼女に、優しげな微笑みを向ける。
普段から柔和な彼だが、雅に見せるそれは他以上の柔らかさだった。
どんなに疎い人間であろうと、不二の彼女への気持ちは一目瞭然であるに違いない。
優雅な仕草で腰をあげると、扉の前で立ったままの雅の元へと歩み寄った。
「もう出発する?」
「うん、早めに行った方が確実にチケットとれるから。待ってくれてありがとう」
「気にしなくていいよ。予定より早く押し掛けたのは僕の方だしね」
「不二といれる時間増えたし、私は嬉しかったけど」
さらりと混ぜられた台詞がどれだけ相手に喜びを与えているか、きっと彼女は気付いていないだろう。
「僕もだよ」
クスリと笑みを零しながら、内心で唇を噛んだ。
こんな時、感情を表出させるのが苦手な自分を疎ましく思う。
頬を染めるなり照れるなりすれば、彼女は気付いてくれるだろうか。
いつも通りそんな思考に捕らわれながら、はにかむ雅の手をそっととると、玄関へと移動する。
今日は互いに久しぶりの休暇で、一緒に映画を見に行く約束だった。
「雨酷いね。やっぱり車だそうか」
「んー、大丈夫。車だとすぐ着いちゃうでしょ。不二と目合わせられないし」
指先でちょいちょいと前髪を撫でつけながら、伏せ目がちに顔を綻ばせる。
彼女独特の照れているのサインに思わず口元が緩んだ。
「そうだね」
−彼女には一目惚れだった。
中学の全国大会で、対戦相手のマネージャーをしていた彼女に惹かれて仕方なかった。
しかし、彼女には既に想い合う相手がいた。
彼には試合でも叶わなかった。
雅との再会は進学した大学で、偶々座った席の隣で本を読んでいたのが彼女だった。
見つめすぎたのか彼女がふと顔を上げ、
…視線が合った時の互いの顔は今でも忘れられない。
その時、彼女は中学での彼とまだ続いていて、大学を卒業したら結婚をする約束までしていた。
幸せに、なるはずだった。
彼を乗せた飛行機が、事故にさえ遭わなければ。
運命はあまりに唐突に、彼女から幸せを奪い去った。
結局乗客の死体はあがらず、集団行方不明とされた。
暫くは笑うこともできなくなっていた彼女をずっと励まし続けたが、周りに気を遣って無理に笑顔を造り始めた姿を見ていられなくなった。
卑怯だとは分かっていても、長年育ち続けた気持ちはもう抑えられなかった。
「よかったね、映画」
心地良いソプラノに、我にかえる。
いつの間にか映画は終わっていたらしい。
内容などは全く入っておらず、未だに心が揺れているのが分かった。
−もう決めたことだけど、やっぱりそう簡単なことじゃないか。
やや心配そうな色の混じる瞳に罪悪感が満ちる。
彼女といる時に意識を飛ばすなど、いつもなら絶対しないミスに自分を叱咤しながらも本来の器用さで瞬時に繕った。
「−うん、話題作なだけあると思うよ」
「だよね!見れて良かった」
ふわりと顔を綻ばせる雅に合わせてゆったり歩く。
時々触れ合う手の温度に、やり場をなくした感情がさ迷った。
映画館を出ると、少し弱まった雨音を聴きながら腕時計を確認する。
それにシンクロするようにクルリと淡い色のスカートを翻した雅が不二の顔を覗き込んだ。
「お昼にはまだ早いし…こっからどうしよっか」
明るく問いかけてくる姿に胸が痛む。
腕時計に視線を投げ掛けたまま、いつも通りの表情を造った。
「そうだね、そろそろいい時間だ」
「…不二?」
−話が噛み合わない。
彼にしては珍しい現象に異常を感じた雅が顔をあげると、相変わらずの穏やかな笑顔が映った。
しかし、何かが違う。
曖昧な違和感に、心臓が微かにドクリと脈打った。
「君にはこれから行くべき所があるはずだよ」
「な、にを…」
声が、震える。
必死に冷静を取り繕おうと努力する雅の手をとると、不二はポケットから取り出した紙切れを彼女に握らせた。
カサリと音をたてたソレに、目を見開く。
「…何で…不二…」
捨てた筈の新聞の記事。
泣きそうになる雅の髪をサラリと撫でた不二はクスッと笑った。
「もっと自分に素直になっていいんだ。縛り付けてごめんね雅」
−その記事を見つけたのは偶然だった。
やっと彼女が普通に笑えるようになって、1ヶ月を過ぎようとしていた頃だ。
電車の待ち時間にベンチに置き去りにされていた新聞の、小さな記事。
目に入ったのは、1年前の飛行機事故の被害者達が生き延びていたという知らせだった。
奇跡的に無人島に行き着いていたらしい。
場所が難しいこともあり、発見された彼らに余裕があったことからも、充分な準備が出来次第救出にいくという内容だった。
普通なら一面を飾ってもいい内容だろう。
しかし幸か不幸か、いくつもの大きな話題が競り合いをしている時期で、隅っこのスペースにちんまりと記載されているだけだった。
焦る気持ちを抑えつけて雅に会ったが彼女の様子はなんら変わりなく、まだ知らないのだと、そう思い込んだ。
不謹慎だと承知しながらも、安堵を感じずにはいられなかった。
雅がこれを知ったらきっと彼女は彼の元に行くだろう。
どんなに時が立とうとも、心が彼から動けずにいるのは知っていた。
そんな彼女の気持ちを知りながら、臆病な自分は彼女を失うことを恐れてその事実をなかったことにしようとしたのだ。
否、するはずだった。
−彼女の部屋で、その記事を発見しなければ。
見つけてしまった、こっそりと捨てられていた新聞紙。
震える指先で広げたそれを息の止まる思いで見つめた。
幾つもの乾いた涙の跡を、そっとなぞる。
しわしわのその紙切れは、彼女の葛藤の結末だった。
ざわざわ。
周りの雑音が酷く遠い。
酷く落ち着いた声が、湿っぽい空気を震わした。
「−今日が彼等の帰ってくる日だっていうのも知っていたんだ。知ってて、敢えて今日を選んだんだよ」
「…うん」
新聞紙の切り抜きに視線を落としたままの雅の表情は、窺えない。
それでも懸命に耳を傾けて頷いてくれる姿に、愛しさが溢れた。
「今日の約束、もし君が少しでも迷ったり断ったりしたなら、僕は君を離すつもりはなかった」
一種の賭けだった。
わざと、彼が帰ってくる日を指定して話を持ちかけた。
彼と自分、どちらをとるのか。
優しい彼女が選べないのを想定しながら、残酷な2択を押し付けた。
『次の日曜日、休みだよね。映画でも見に行かない?』
『映画?』
『うん、前雅が話してた話題作。面白そうだし、僕も興味があるんだけど』
ここで一瞬でも迷いが見れたなら、嫉妬に狂った自分は嘘を突き通してでも彼女を自分に繋ぎ留めただろう。
寧ろ、そうなることを望んでいたのかもしれない。
最早、手段など選ぶほどの余裕もなかった。
だからこそ、こんな酷な難問を仕掛けた。
結果、−雅は容易くその予測を裏切った。
『−いいよ』
何の迷いもなくあっさり首を縦に振った雅に、一瞬頭が真っ白になる。
次の瞬間には、もしかすると彼女は彼の帰ってくる日付を知らないのかと、そんな考えが頭を過ぎり−、
しかし、そんな思考は直ぐに打ち消された。
視界に入ってしまった、左手の人差し指を覆おうとして、引っ込めた右手。
伊達に彼女を見てきたわけではない。
人差し指を手で覆うのは、自分の気持ちを抑える時の彼女の癖だ。
癖でさえ自覚して隠せるようになってしまった雅に、ひやりと心臓の温度が下がった気がした。
花のような笑顔を前に、後悔が頭を占める。
−ああ、嘘が苦手だった君に、そんな技術を与えたのは。
身につけざるを得ない状況を作ったのは、
…−僕だ。
「君は、自分の気持ちを抑えて僕を優先してくれた」
「…不、」
視線は、合わなかった。
雅が不二を見上げる前に、ふわりと温度が身体を包む。
顔に押し付けられたセーターに、抱き締められたのだと認識した。
冷たい体温が頭部に掛かる指先を通じて伝わる。
微かに、かすかに感じた振動。
いつものように温和な笑みを浮かべているようには思えなかった。
下手に身動きすることもできず、ただ彼の出方を待つ。
「…、不二」
「ごめん」
最初で最後の抱擁だった。
思ったよりもずっと低い体温に、回す腕に一層力が入る。
好きなんだ、誰よりも。
何よりも大切だった。
変に我慢強いところも、
少し掠れたソプラノも、
みんなに見せる笑顔も、
−彼にだけ見せる表情も。
彼の気持ちと自分の気持ちの比較などできるわけもなく、どちらがより彼女を愛しているかなんて、分からない。
しかし、もっと早く出会っていればという想いは消し去れなかった。
これから先、自分にはまだまだ出会いがあるだろう。
恋に落ちて、誰かを好きになるだろう。
けど、彼女以上に愛する人はきっともういない。
「悔しいけど、君を幸せにできるのは僕じゃない」
名残惜しみながらもそっと身体を離すと、涙に濡れる瞳と視線が絡んだ。
どんな時でも相手の目を見るのが彼女のモットーだ。
必死に堪えているのだろう。
泣かせたいわけじゃない。
今にも零れそうな涙に困ったように微笑んで、溢れる前に指で攫ってやる。
「…っごめん、ごめんね…!」
熱い雫を受けると同時に、伸びた白い両手に掴まれる手。
互いの冷たい体温が混じり合い、触れ合う箇所に神経が集中した。
長い睫毛からポロポロと落ちる涙はもう収拾がつきそうもない。
「君が謝る必要はないんだよ。我儘に付き合ってくれてありがとう」
好きで好きで仕方がないけれど、君から笑顔を奪いたくはないんだ。
あの時一瞬で自分の目を奪った、彼に向ける幸せそうな笑みを、できることならもう一度。
震える雅の手をそっと外して、背中を押して促す。
翻る黒髪。
小さくなる背を見送りながら、どちらのものか分からない温度を握り締めた。
許してあげないよ、君が傷付くなんてこと
(出来ることなら、君を幸せにするのは僕の役割でありたかったけれど)
(ああ、言葉なんて役立たずだ)
雨の行方、涙の跡、痕、後。
(お題提供元:mikke様)
ザアザアと、水が屋根を打ち鳴らす音が染み渡る。
外を見れば、窓が絶え間なく大粒の涙を流していた。
これは誰の心境だろうか。
そっと自嘲の笑みを浮かべるが、それは誰に届くこともなく空気に消える。
ガチャリとドアノブが捻られる気配が耳に届き、不二はゆっくりとそちらに顔を向けた。
「ごめん、お待たせ不二」
「そんなに待ってないから大丈夫だよ」
申し訳なさそうに顔を覗かせた彼女に、優しげな微笑みを向ける。
普段から柔和な彼だが、雅に見せるそれは他以上の柔らかさだった。
どんなに疎い人間であろうと、不二の彼女への気持ちは一目瞭然であるに違いない。
優雅な仕草で腰をあげると、扉の前で立ったままの雅の元へと歩み寄った。
「もう出発する?」
「うん、早めに行った方が確実にチケットとれるから。待ってくれてありがとう」
「気にしなくていいよ。予定より早く押し掛けたのは僕の方だしね」
「不二といれる時間増えたし、私は嬉しかったけど」
さらりと混ぜられた台詞がどれだけ相手に喜びを与えているか、きっと彼女は気付いていないだろう。
「僕もだよ」
クスリと笑みを零しながら、内心で唇を噛んだ。
こんな時、感情を表出させるのが苦手な自分を疎ましく思う。
頬を染めるなり照れるなりすれば、彼女は気付いてくれるだろうか。
いつも通りそんな思考に捕らわれながら、はにかむ雅の手をそっととると、玄関へと移動する。
今日は互いに久しぶりの休暇で、一緒に映画を見に行く約束だった。
「雨酷いね。やっぱり車だそうか」
「んー、大丈夫。車だとすぐ着いちゃうでしょ。不二と目合わせられないし」
指先でちょいちょいと前髪を撫でつけながら、伏せ目がちに顔を綻ばせる。
彼女独特の照れているのサインに思わず口元が緩んだ。
「そうだね」
−彼女には一目惚れだった。
中学の全国大会で、対戦相手のマネージャーをしていた彼女に惹かれて仕方なかった。
しかし、彼女には既に想い合う相手がいた。
彼には試合でも叶わなかった。
雅との再会は進学した大学で、偶々座った席の隣で本を読んでいたのが彼女だった。
見つめすぎたのか彼女がふと顔を上げ、
…視線が合った時の互いの顔は今でも忘れられない。
その時、彼女は中学での彼とまだ続いていて、大学を卒業したら結婚をする約束までしていた。
幸せに、なるはずだった。
彼を乗せた飛行機が、事故にさえ遭わなければ。
運命はあまりに唐突に、彼女から幸せを奪い去った。
結局乗客の死体はあがらず、集団行方不明とされた。
暫くは笑うこともできなくなっていた彼女をずっと励まし続けたが、周りに気を遣って無理に笑顔を造り始めた姿を見ていられなくなった。
卑怯だとは分かっていても、長年育ち続けた気持ちはもう抑えられなかった。
「よかったね、映画」
心地良いソプラノに、我にかえる。
いつの間にか映画は終わっていたらしい。
内容などは全く入っておらず、未だに心が揺れているのが分かった。
−もう決めたことだけど、やっぱりそう簡単なことじゃないか。
やや心配そうな色の混じる瞳に罪悪感が満ちる。
彼女といる時に意識を飛ばすなど、いつもなら絶対しないミスに自分を叱咤しながらも本来の器用さで瞬時に繕った。
「−うん、話題作なだけあると思うよ」
「だよね!見れて良かった」
ふわりと顔を綻ばせる雅に合わせてゆったり歩く。
時々触れ合う手の温度に、やり場をなくした感情がさ迷った。
映画館を出ると、少し弱まった雨音を聴きながら腕時計を確認する。
それにシンクロするようにクルリと淡い色のスカートを翻した雅が不二の顔を覗き込んだ。
「お昼にはまだ早いし…こっからどうしよっか」
明るく問いかけてくる姿に胸が痛む。
腕時計に視線を投げ掛けたまま、いつも通りの表情を造った。
「そうだね、そろそろいい時間だ」
「…不二?」
−話が噛み合わない。
彼にしては珍しい現象に異常を感じた雅が顔をあげると、相変わらずの穏やかな笑顔が映った。
しかし、何かが違う。
曖昧な違和感に、心臓が微かにドクリと脈打った。
「君にはこれから行くべき所があるはずだよ」
「な、にを…」
声が、震える。
必死に冷静を取り繕おうと努力する雅の手をとると、不二はポケットから取り出した紙切れを彼女に握らせた。
カサリと音をたてたソレに、目を見開く。
「…何で…不二…」
捨てた筈の新聞の記事。
泣きそうになる雅の髪をサラリと撫でた不二はクスッと笑った。
「もっと自分に素直になっていいんだ。縛り付けてごめんね雅」
−その記事を見つけたのは偶然だった。
やっと彼女が普通に笑えるようになって、1ヶ月を過ぎようとしていた頃だ。
電車の待ち時間にベンチに置き去りにされていた新聞の、小さな記事。
目に入ったのは、1年前の飛行機事故の被害者達が生き延びていたという知らせだった。
奇跡的に無人島に行き着いていたらしい。
場所が難しいこともあり、発見された彼らに余裕があったことからも、充分な準備が出来次第救出にいくという内容だった。
普通なら一面を飾ってもいい内容だろう。
しかし幸か不幸か、いくつもの大きな話題が競り合いをしている時期で、隅っこのスペースにちんまりと記載されているだけだった。
焦る気持ちを抑えつけて雅に会ったが彼女の様子はなんら変わりなく、まだ知らないのだと、そう思い込んだ。
不謹慎だと承知しながらも、安堵を感じずにはいられなかった。
雅がこれを知ったらきっと彼女は彼の元に行くだろう。
どんなに時が立とうとも、心が彼から動けずにいるのは知っていた。
そんな彼女の気持ちを知りながら、臆病な自分は彼女を失うことを恐れてその事実をなかったことにしようとしたのだ。
否、するはずだった。
−彼女の部屋で、その記事を発見しなければ。
見つけてしまった、こっそりと捨てられていた新聞紙。
震える指先で広げたそれを息の止まる思いで見つめた。
幾つもの乾いた涙の跡を、そっとなぞる。
しわしわのその紙切れは、彼女の葛藤の結末だった。
ざわざわ。
周りの雑音が酷く遠い。
酷く落ち着いた声が、湿っぽい空気を震わした。
「−今日が彼等の帰ってくる日だっていうのも知っていたんだ。知ってて、敢えて今日を選んだんだよ」
「…うん」
新聞紙の切り抜きに視線を落としたままの雅の表情は、窺えない。
それでも懸命に耳を傾けて頷いてくれる姿に、愛しさが溢れた。
「今日の約束、もし君が少しでも迷ったり断ったりしたなら、僕は君を離すつもりはなかった」
一種の賭けだった。
わざと、彼が帰ってくる日を指定して話を持ちかけた。
彼と自分、どちらをとるのか。
優しい彼女が選べないのを想定しながら、残酷な2択を押し付けた。
『次の日曜日、休みだよね。映画でも見に行かない?』
『映画?』
『うん、前雅が話してた話題作。面白そうだし、僕も興味があるんだけど』
ここで一瞬でも迷いが見れたなら、嫉妬に狂った自分は嘘を突き通してでも彼女を自分に繋ぎ留めただろう。
寧ろ、そうなることを望んでいたのかもしれない。
最早、手段など選ぶほどの余裕もなかった。
だからこそ、こんな酷な難問を仕掛けた。
結果、−雅は容易くその予測を裏切った。
『−いいよ』
何の迷いもなくあっさり首を縦に振った雅に、一瞬頭が真っ白になる。
次の瞬間には、もしかすると彼女は彼の帰ってくる日付を知らないのかと、そんな考えが頭を過ぎり−、
しかし、そんな思考は直ぐに打ち消された。
視界に入ってしまった、左手の人差し指を覆おうとして、引っ込めた右手。
伊達に彼女を見てきたわけではない。
人差し指を手で覆うのは、自分の気持ちを抑える時の彼女の癖だ。
癖でさえ自覚して隠せるようになってしまった雅に、ひやりと心臓の温度が下がった気がした。
花のような笑顔を前に、後悔が頭を占める。
−ああ、嘘が苦手だった君に、そんな技術を与えたのは。
身につけざるを得ない状況を作ったのは、
…−僕だ。
「君は、自分の気持ちを抑えて僕を優先してくれた」
「…不、」
視線は、合わなかった。
雅が不二を見上げる前に、ふわりと温度が身体を包む。
顔に押し付けられたセーターに、抱き締められたのだと認識した。
冷たい体温が頭部に掛かる指先を通じて伝わる。
微かに、かすかに感じた振動。
いつものように温和な笑みを浮かべているようには思えなかった。
下手に身動きすることもできず、ただ彼の出方を待つ。
「…、不二」
「ごめん」
最初で最後の抱擁だった。
思ったよりもずっと低い体温に、回す腕に一層力が入る。
好きなんだ、誰よりも。
何よりも大切だった。
変に我慢強いところも、
少し掠れたソプラノも、
みんなに見せる笑顔も、
−彼にだけ見せる表情も。
彼の気持ちと自分の気持ちの比較などできるわけもなく、どちらがより彼女を愛しているかなんて、分からない。
しかし、もっと早く出会っていればという想いは消し去れなかった。
これから先、自分にはまだまだ出会いがあるだろう。
恋に落ちて、誰かを好きになるだろう。
けど、彼女以上に愛する人はきっともういない。
「悔しいけど、君を幸せにできるのは僕じゃない」
名残惜しみながらもそっと身体を離すと、涙に濡れる瞳と視線が絡んだ。
どんな時でも相手の目を見るのが彼女のモットーだ。
必死に堪えているのだろう。
泣かせたいわけじゃない。
今にも零れそうな涙に困ったように微笑んで、溢れる前に指で攫ってやる。
「…っごめん、ごめんね…!」
熱い雫を受けると同時に、伸びた白い両手に掴まれる手。
互いの冷たい体温が混じり合い、触れ合う箇所に神経が集中した。
長い睫毛からポロポロと落ちる涙はもう収拾がつきそうもない。
「君が謝る必要はないんだよ。我儘に付き合ってくれてありがとう」
好きで好きで仕方がないけれど、君から笑顔を奪いたくはないんだ。
あの時一瞬で自分の目を奪った、彼に向ける幸せそうな笑みを、できることならもう一度。
震える雅の手をそっと外して、背中を押して促す。
翻る黒髪。
小さくなる背を見送りながら、どちらのものか分からない温度を握り締めた。
許してあげないよ、君が傷付くなんてこと
(出来ることなら、君を幸せにするのは僕の役割でありたかったけれど)
(ああ、言葉なんて役立たずだ)
雨の行方、涙の跡、痕、後。
(お題提供元:mikke様)