◇
ガッターン。
机を倒す勢いで教室に飛び込んできた小柄な人影に、氷室は日誌の為に動かしていた手を止めた。
やれやれと苦笑を零して、そちらを見やる。
「っ氷室君!」
「…またアツシに何か言われた?」
「っもうっもう紫原君とか知らない!」
うわああああ。
氷室の言葉に肯定を返すように、彼の座る席まで駆け寄った雅はその机に縋りついた。
勢い余ったのか、机に落ちた額から鈍い音が発せられ思わず心配するが、全く気にならないらしい。
艶のある黒髪が日誌にもお構いなしに散らばる。
「ミヤビは女の子なんだから、もう少し身体を大事にした方がいいな」
頬杖をついて話を聞く体勢を作りながら、もう片方の手で先程ぶつけた額を確認しようと顔を挙げさせた。
瞬間、潤んだ瞳と視線が絡む。
勿論、机との接触による痛みからのものではないのだろう。
白い額はほんのり赤みをさしているが、本人の意識がそこに向いていないのは明白だ。
さて、どう原因を聞き出すべきか。
今にも塩水が溢れそうなそれに困ったように笑むと、彼女の方から身を乗り出してきた。
「聞いて氷室君、調理実習で作ったカップケーキを取られたんだよ彼に」
「それは元々はアツシに渡すつもりだったんじゃないのか?」
「そうだけど…今日のはいつもよりさらに酷い出来で…、氷室君に味見してもらうのも、億劫なくらい…だから自分で食べるつもりでね…、」
「−ああ、なるほどね」
視線を落としてごにょごにょと語尾を弱める彼女に、大体の流れを察する。
紫原と付き合うまではいかなくとも、ほぼそれに近いであろう関係を築く雅は、正直なところ家事関係は苦手分野だ。
勿論、お菓子が大好物な紫原相手では重要であろう料理といった部分でも、それは例外ではない。
食べられないとまではいかないが、お世辞にも美味しいとは言えない品物の数々。
よく試食係として味見に貢献している氷室ならば上手い言い回しでアドバイスに換えられるが、直球な彼にそれが出きるかと尋ねられれば答えはNOだ。
現にこうして泣きつかれることも少なくはなかった。
何とか落ち着かせようと触り心地のいい長髪を撫でつける中、彼女の訴えは流れ続ける。
「無理やりとってって、“やっぱ飴ちんってお菓子作るの向いてないんじゃない?”とか言うんだよ!?誰の為に頑張ってると思ってんのーっ」
私だって本来は食べる係なのにぃいい。
とうとう顔を伏せてしまった彼女は、普段は穏やかな部類だ。
他人の愚痴や相談なんかも文句も言わずに真剣に耳を傾けるほどの。
そんな雅をここまで叫ばす彼には、純粋に感嘆してしまう。
まあ、それだけアツシのことが好きなんだろうけどね。
雅のような一途なタイプにこれだけ想われている同僚を少し羨ましく思うが、彼女は自分にとっても大切な友人だ。
このまま涙している姿をじっと眺めているわけにもいかない。
「別にアツシは菓子が食べたくてキミに近付いてるわけじゃないだろ?」
「分かってる…分かってるけど…、他の子が作ったヤツは美味しいって食べるから…」
「彼は欲求には正直だからね、それは純粋に腹が減ってるだけだ。ほら、アツシの菓子好きは有名だし。ミヤビだって貰える物は受け取るんじゃないか?」
「そ、れは…そうだけど…」
結構強情だな。
だうー。
再び滴の玉を作り始めた睫毛に、無意識に口元が弛んだ。
アメリカに滞在していた時の弟分を思い出して、何かと手をやいてしまう彼女と重ねる。
もう少し出逢うのが早ければ、また違う目で見ていたかもしれない。
そんな思考をさまよいながら、とうとう頬へと弾き出された涙を拭おうと、その肌に指先を這わした。
瞬間、二人きりだった空間にもうひとつの気配が滲み出る。
「−何してんの室ちんー」
「ああ、アツシか」
「…紫原君」
間延びしたようなそれはいつもと変わらないようで、少し異なった。
違和感と言い切れないほどの曖昧なそれが気持ち悪くて、雅は居心地悪そうに身じろぎする。
「んー…なんで飴ちんが泣いてるわけ?室ちん何したのさ」
「いや、オレは何もしてないよ」
「はあ?だって飴ちん泣いてるし」
「…っもぉお、紫原君のせいだってば!」
話を聞いてくれていた氷室に対して妙ないちゃもんを付け始めた元凶に、雅は堪らず涙を蹴散らした。
ガタンと音を立てて立ち上がると、のそのそと歩み寄ってくる紫原を睨みあげる。
しかし小柄な部類である彼女が泣きっ面で視線を強くしようが、紫原には愛でる対象にしか映らないらしい。
よしよしと丸い頭部に置いた手を不機嫌そうに避けられて、そこで初めて首を横に傾けた。
コテン、と斜めった頭に合わせて、ラベンダー色が揺れる。
「……オレ何かしたっけ。覚えがないんだけどー」
「ばかー!っどうせあたしはお菓子作り向いてないけど、そんなことはわざわざ言われなくったって分かってるんだから!それでも喜んでほしくて頑張ってるのにぃ…」
ぐす。
今度は本格的に泣き出してしまった彼女の台詞に、思い当たる節があったらしい。
むーっと唇を横に結んだ紫原は、片手にしていたポテチの袋をぱっと空中に落とすなり、雅へと腕を延ばした。
不意打ちで反応できない彼女の脇腹に手を差し込んで軽々とその身を持ち上げる。
「ひゃ!?」
「飴ちんは別にお菓子とか作んなくていいんだってばー」
「それは美味しくないからでしょ!?マズいならマズいってはっきり言えばいいよっ降ろしてー!」
「やだ。飴ちんが作ったら食わないといけないじゃん」
「だから食べたくないなら食べなかったらっ…う、」
揺らぐ視界。
水の膜を撤去しようにも、高い高いをするように持ち上げられた状態では上肢の自由も効かない。
このまま胸元でも蹴り上げてやろうかと企んでいると、背後から空気の振動が伝わった。
静かに吐き出された息から幽かな笑いを感じ取って、ゆるりとそちらに焦点を移動させる。
「氷室君、なに?」
「ミヤビ、アツシが言いたいのは多分そういうことじゃないぞ」
「…だって、他にどう解釈できるか分からないよ…」
どう聞いても、自分が作ったお菓子を食べたくないから何も作るなと言っているようにしか捉えられない。
もう思考回路を働かせるのも放棄したくて、ぎゅっと上下の睫毛を引き合わせた。
明るい暗闇の中、ゆるゆると身体が下がっていくのを感じる。
やっと解放してくれる気になったらしい。
床に足底が接触したのを確信するなりそっと瞼を押し上げようとするが、不意に目元を覆った布地に阻まれる。
「え!?わ、ちょ、ん…ー!」
ごしごしと肌との摩擦を起こすそれは、状態から察するに紫原の袖口だろう。
コンソメの芳しい香りが鼻腔を掠めた。
ちょ、お腹空きそうです。
そんな見当違いな方向へ思考が逸れかかったあたりで、布が大体の水分を吸ったと判断したのか視界が開ける。
同時に、明らかに拗ねた音が鼓膜を揺さぶった。
「−オレが食わなかったら、室ちんにあげちゃうくせに」
「えぇ?」
キョトンと瞳を瞬かせる雅に、軽く屈んだ氷室がそっと耳打ちするように助け船を出す。
「…つまり嫉妬してるんだよ、アツシは。ミヤビは作ったらまずオレのところに持ってくるだろ?アツシに自ら進んで食わせることはないのに」
「えっと…?だって、それは失敗作ばっかで…」
耳を撫でる吐息の擽ったさに耐えながらそちらに視線を向けようとするが、ぐいと背中から圧迫を受けて前のめった。
どうやら今度は本格的に抱き込まれたらしい。
長いリーチで縫いぐるみでも抱きしめるかのように腕を回されては一溜まりもない。
彼のお腹あたりに押しつけられる顔を寸前で横に捻って、必死に酸素を確保した。
「っぷあ!あの、むらさ…くるし…っ」
ぱたぱたと腕を振るって主張するも、効果なし。
室ちん近付きすぎー。
華奢な雅を覆うように抱きすくめた紫原は、氷室をジトリと見やりながら彼女の黒髪をくしゃくしゃりと撫でた。
「だから作らなかったらいいんだってばー。別にお菓子作ってほしいわけじゃねーし。飴ちんはオレと一緒に美味いもん食ってたらいいじゃん」
それじゃダメなの?
「っ…、−」
心なしかいつもより柔らかい音に応えるように、抗議しようとさまよわせていた手で彼の制服の裾を握る。
これだから止められない。
−紫原君。
数秒前までとは180°違う理由で潤った声色で、そっと微笑んだ。
「−次は砂糖と胡椒間違えないからね」
「ふーん、あれコショウ入ってたんだー。…で、飴ちんオレの話聞いてたー?」
「…まあ塩なんて王道ではないところがミヤビらしいな」
なんてこった、パンナコッタ。
(だってやっぱり好きな人には美味しいって言ってほしいから、)
(次泣かしたら…攫う準備もしとかないとな)
(室ちんにばっか持ってくってどうゆーこと?)
さよなら、カップケーキさんさん。
ガッターン。
机を倒す勢いで教室に飛び込んできた小柄な人影に、氷室は日誌の為に動かしていた手を止めた。
やれやれと苦笑を零して、そちらを見やる。
「っ氷室君!」
「…またアツシに何か言われた?」
「っもうっもう紫原君とか知らない!」
うわああああ。
氷室の言葉に肯定を返すように、彼の座る席まで駆け寄った雅はその机に縋りついた。
勢い余ったのか、机に落ちた額から鈍い音が発せられ思わず心配するが、全く気にならないらしい。
艶のある黒髪が日誌にもお構いなしに散らばる。
「ミヤビは女の子なんだから、もう少し身体を大事にした方がいいな」
頬杖をついて話を聞く体勢を作りながら、もう片方の手で先程ぶつけた額を確認しようと顔を挙げさせた。
瞬間、潤んだ瞳と視線が絡む。
勿論、机との接触による痛みからのものではないのだろう。
白い額はほんのり赤みをさしているが、本人の意識がそこに向いていないのは明白だ。
さて、どう原因を聞き出すべきか。
今にも塩水が溢れそうなそれに困ったように笑むと、彼女の方から身を乗り出してきた。
「聞いて氷室君、調理実習で作ったカップケーキを取られたんだよ彼に」
「それは元々はアツシに渡すつもりだったんじゃないのか?」
「そうだけど…今日のはいつもよりさらに酷い出来で…、氷室君に味見してもらうのも、億劫なくらい…だから自分で食べるつもりでね…、」
「−ああ、なるほどね」
視線を落としてごにょごにょと語尾を弱める彼女に、大体の流れを察する。
紫原と付き合うまではいかなくとも、ほぼそれに近いであろう関係を築く雅は、正直なところ家事関係は苦手分野だ。
勿論、お菓子が大好物な紫原相手では重要であろう料理といった部分でも、それは例外ではない。
食べられないとまではいかないが、お世辞にも美味しいとは言えない品物の数々。
よく試食係として味見に貢献している氷室ならば上手い言い回しでアドバイスに換えられるが、直球な彼にそれが出きるかと尋ねられれば答えはNOだ。
現にこうして泣きつかれることも少なくはなかった。
何とか落ち着かせようと触り心地のいい長髪を撫でつける中、彼女の訴えは流れ続ける。
「無理やりとってって、“やっぱ飴ちんってお菓子作るの向いてないんじゃない?”とか言うんだよ!?誰の為に頑張ってると思ってんのーっ」
私だって本来は食べる係なのにぃいい。
とうとう顔を伏せてしまった彼女は、普段は穏やかな部類だ。
他人の愚痴や相談なんかも文句も言わずに真剣に耳を傾けるほどの。
そんな雅をここまで叫ばす彼には、純粋に感嘆してしまう。
まあ、それだけアツシのことが好きなんだろうけどね。
雅のような一途なタイプにこれだけ想われている同僚を少し羨ましく思うが、彼女は自分にとっても大切な友人だ。
このまま涙している姿をじっと眺めているわけにもいかない。
「別にアツシは菓子が食べたくてキミに近付いてるわけじゃないだろ?」
「分かってる…分かってるけど…、他の子が作ったヤツは美味しいって食べるから…」
「彼は欲求には正直だからね、それは純粋に腹が減ってるだけだ。ほら、アツシの菓子好きは有名だし。ミヤビだって貰える物は受け取るんじゃないか?」
「そ、れは…そうだけど…」
結構強情だな。
だうー。
再び滴の玉を作り始めた睫毛に、無意識に口元が弛んだ。
アメリカに滞在していた時の弟分を思い出して、何かと手をやいてしまう彼女と重ねる。
もう少し出逢うのが早ければ、また違う目で見ていたかもしれない。
そんな思考をさまよいながら、とうとう頬へと弾き出された涙を拭おうと、その肌に指先を這わした。
瞬間、二人きりだった空間にもうひとつの気配が滲み出る。
「−何してんの室ちんー」
「ああ、アツシか」
「…紫原君」
間延びしたようなそれはいつもと変わらないようで、少し異なった。
違和感と言い切れないほどの曖昧なそれが気持ち悪くて、雅は居心地悪そうに身じろぎする。
「んー…なんで飴ちんが泣いてるわけ?室ちん何したのさ」
「いや、オレは何もしてないよ」
「はあ?だって飴ちん泣いてるし」
「…っもぉお、紫原君のせいだってば!」
話を聞いてくれていた氷室に対して妙ないちゃもんを付け始めた元凶に、雅は堪らず涙を蹴散らした。
ガタンと音を立てて立ち上がると、のそのそと歩み寄ってくる紫原を睨みあげる。
しかし小柄な部類である彼女が泣きっ面で視線を強くしようが、紫原には愛でる対象にしか映らないらしい。
よしよしと丸い頭部に置いた手を不機嫌そうに避けられて、そこで初めて首を横に傾けた。
コテン、と斜めった頭に合わせて、ラベンダー色が揺れる。
「……オレ何かしたっけ。覚えがないんだけどー」
「ばかー!っどうせあたしはお菓子作り向いてないけど、そんなことはわざわざ言われなくったって分かってるんだから!それでも喜んでほしくて頑張ってるのにぃ…」
ぐす。
今度は本格的に泣き出してしまった彼女の台詞に、思い当たる節があったらしい。
むーっと唇を横に結んだ紫原は、片手にしていたポテチの袋をぱっと空中に落とすなり、雅へと腕を延ばした。
不意打ちで反応できない彼女の脇腹に手を差し込んで軽々とその身を持ち上げる。
「ひゃ!?」
「飴ちんは別にお菓子とか作んなくていいんだってばー」
「それは美味しくないからでしょ!?マズいならマズいってはっきり言えばいいよっ降ろしてー!」
「やだ。飴ちんが作ったら食わないといけないじゃん」
「だから食べたくないなら食べなかったらっ…う、」
揺らぐ視界。
水の膜を撤去しようにも、高い高いをするように持ち上げられた状態では上肢の自由も効かない。
このまま胸元でも蹴り上げてやろうかと企んでいると、背後から空気の振動が伝わった。
静かに吐き出された息から幽かな笑いを感じ取って、ゆるりとそちらに焦点を移動させる。
「氷室君、なに?」
「ミヤビ、アツシが言いたいのは多分そういうことじゃないぞ」
「…だって、他にどう解釈できるか分からないよ…」
どう聞いても、自分が作ったお菓子を食べたくないから何も作るなと言っているようにしか捉えられない。
もう思考回路を働かせるのも放棄したくて、ぎゅっと上下の睫毛を引き合わせた。
明るい暗闇の中、ゆるゆると身体が下がっていくのを感じる。
やっと解放してくれる気になったらしい。
床に足底が接触したのを確信するなりそっと瞼を押し上げようとするが、不意に目元を覆った布地に阻まれる。
「え!?わ、ちょ、ん…ー!」
ごしごしと肌との摩擦を起こすそれは、状態から察するに紫原の袖口だろう。
コンソメの芳しい香りが鼻腔を掠めた。
ちょ、お腹空きそうです。
そんな見当違いな方向へ思考が逸れかかったあたりで、布が大体の水分を吸ったと判断したのか視界が開ける。
同時に、明らかに拗ねた音が鼓膜を揺さぶった。
「−オレが食わなかったら、室ちんにあげちゃうくせに」
「えぇ?」
キョトンと瞳を瞬かせる雅に、軽く屈んだ氷室がそっと耳打ちするように助け船を出す。
「…つまり嫉妬してるんだよ、アツシは。ミヤビは作ったらまずオレのところに持ってくるだろ?アツシに自ら進んで食わせることはないのに」
「えっと…?だって、それは失敗作ばっかで…」
耳を撫でる吐息の擽ったさに耐えながらそちらに視線を向けようとするが、ぐいと背中から圧迫を受けて前のめった。
どうやら今度は本格的に抱き込まれたらしい。
長いリーチで縫いぐるみでも抱きしめるかのように腕を回されては一溜まりもない。
彼のお腹あたりに押しつけられる顔を寸前で横に捻って、必死に酸素を確保した。
「っぷあ!あの、むらさ…くるし…っ」
ぱたぱたと腕を振るって主張するも、効果なし。
室ちん近付きすぎー。
華奢な雅を覆うように抱きすくめた紫原は、氷室をジトリと見やりながら彼女の黒髪をくしゃくしゃりと撫でた。
「だから作らなかったらいいんだってばー。別にお菓子作ってほしいわけじゃねーし。飴ちんはオレと一緒に美味いもん食ってたらいいじゃん」
それじゃダメなの?
「っ…、−」
心なしかいつもより柔らかい音に応えるように、抗議しようとさまよわせていた手で彼の制服の裾を握る。
これだから止められない。
−紫原君。
数秒前までとは180°違う理由で潤った声色で、そっと微笑んだ。
「−次は砂糖と胡椒間違えないからね」
「ふーん、あれコショウ入ってたんだー。…で、飴ちんオレの話聞いてたー?」
「…まあ塩なんて王道ではないところがミヤビらしいな」
なんてこった、パンナコッタ。
(だってやっぱり好きな人には美味しいって言ってほしいから、)
(次泣かしたら…攫う準備もしとかないとな)
(室ちんにばっか持ってくってどうゆーこと?)
さよなら、カップケーキさんさん。