◇
「―雅」
上から掛かる優しい声に、雅は目を開けた。
いつの間にか寝てしまったらしい。
手元の読み掛けの本から視線を上げると、待ち人が微笑んでいる。
窓から差し込む夕陽が図書室全体を照らして、その中に立つ骸を一層幻想的に見せていた。
「待たせてしまってすいません」
見惚れるような動作で隣に腰掛ける骸に微笑を返した雅だったが、足りない人数に首を傾けた。
いつも彼と行動を共にする二人がいない。
「城島君と柿本君は?」
「二人は今日は用事があるんですよ」
「そっか…」
『用事』。
一言で済まされたそれの内容を、雅は何となく知っていた。
三人がこの学校に転校してきて一ヶ月。
初めて見た時から、彼等が他とは根本的に違う人間だということには気付いていた。
そして、恐らく骸は雅のそんなところにも勘づいているのだろう。
少し視線を反らした雅の髪に、口元に笑みを浮かべたまま手を伸ばす。
雅も優しく触れるその温度に目を細め、毎日のように焦がれるオッドアイを見つめた。
「骸は、行かなくて良かった?」
スルリと自分の髪をすり抜ける綺麗な手の映像が、スローモーションで脳へと届く。
「いいんですよ。僕にとっては雅といる時間の方が大事ですから」
そう言って、骸は雅の前髪をそっとかき上げた。
冷たい手に、壊れ物を扱うような仕草に、眩暈がする。
彼のその言葉に偽りがないことは承知の上だ。
自分のことを大切に想ってくれているのも、その想いの大きさも、分かっている。
見た目も能力も普通で一般人の自分。
一つだけ、他とは違うことと言えば、桁外れなこの世界への憎しみか。
それに気付いて近付いてきた骸だからこそ、こんなにも惹かれたのだろう。
黙り込む雅の顔を、骸は愉しげに覗き込んだ。
「何を考えているんですか?」
「…骸、貴方は一体私のどこが好きなの?」
表情も変えずに問われた言葉に一瞬きょとんとすると、次の瞬間には声を上げて笑う。
「っクハハ!貴方という人は…そんな事を考えてたんですか。勿論、全部―、ですよ」
彼女の漆黒の瞳に映る自分の姿を確認しながら、骸は口の端をつり上げた。
―そう、全部。
初めて見た時から興味を惹かれた。
教室に入った時から、一見目立たない大人しそうな雅が、やたら気になった。
そして視線が交わった瞬間、その目を見た瞬間に心を奪われたのだ。
誰も当てにしていない、一人で生きていくと決心した者の持つ、深い黒。
それを覆う、周りに向ける柔かい笑顔。
どこか自分と似た彼女を気に入り、傍に置くことになるのに、そう時間はかからなかった。
自分でもここまで溺れることになるとは思っていなかった。
初めに惹かれたその瞳は勿論、その低めの声も、白い肌も、少し癖毛な髪も、考え方も、周りに対しての仮面でさえも、彼女の全てが好きだ。
愛しい少女の額に、ゆっくり口付ける。
「―雅、」
自分を呼ぶ声に、雅はピクリと反応した。
耳を擽る甘いそれに、脳が麻痺しそうだ。
耳を塞ぎたくなるのを必死に堪える。
「愛してます」
思考回路を断つ、麻薬擬の言葉が全身から浸透した。
乾燥する唇を引き締めて、雅は目を瞑る。
骸の気持ちを疑う気は毛頭ない。
ただ、愛情というものを受けずに育った彼女には、骸の想いは受けきれなかった。
戸惑った。
自分の想いの伝え方も分からなかった。
熱くなる目元にうつ向いて、額に当てられた彼の手に両手を添える。
「…雅?」
震える手と、パタリと落ちた雫。
膝に乗る本の表紙に飛び散った彼女の涙に、珍しくも焦る自分がいた。
微かに眉を潜めて心配そうに見守る中、雅の薄い唇が開く。
「むく、ろ…」
揺れる音程、今にも消えそうな声に耳を澄ませた。
「―ッいなくならないで…!」
かすれた叫び声が届く前に、思い切りその華奢な身体を抱き締める。
彼女の膝から滑り落ちた本の音が響く。
骸は今までとは一変した、困ったような微笑みを浮かべて、雅の温度に触れる腕に力を込めた。
「いなくなんてなりませんよ。ずっと隣にいます」
冷たい手の温度に反する温もりと優しい囁きに、うっすら開けた視界が滲む。
こんなに想ってくれているのに、自分には返せない。
骸の気持ちに応えられない。
同じ好きでも、大きさが違い過ぎるのだ。
彼の愛は大き過ぎる。
今の雅には、骸の優しさが怖かった。
「…愛してます、雅」
言い聞かせるように、再度脳に届く信号。
切ない響きに、骸が消える錯覚に陥る。
きっと、いつか彼は自分の前から消えるだろう。
だったら愛なんて苦しくなるだけ。
だから、お願いだから、これ以上気持ちを育てないで。
育てさせないで。
唇をかすめた温度に、涙が頬を伝った。
愛してるなんて言わないで、好きって言って?
(気持ちが膨らむ度に、怖くなるの)
(言葉に乗切らないほどの君への愛に、気が狂いそうだ)
誰よりも、何よりも。
「―雅」
上から掛かる優しい声に、雅は目を開けた。
いつの間にか寝てしまったらしい。
手元の読み掛けの本から視線を上げると、待ち人が微笑んでいる。
窓から差し込む夕陽が図書室全体を照らして、その中に立つ骸を一層幻想的に見せていた。
「待たせてしまってすいません」
見惚れるような動作で隣に腰掛ける骸に微笑を返した雅だったが、足りない人数に首を傾けた。
いつも彼と行動を共にする二人がいない。
「城島君と柿本君は?」
「二人は今日は用事があるんですよ」
「そっか…」
『用事』。
一言で済まされたそれの内容を、雅は何となく知っていた。
三人がこの学校に転校してきて一ヶ月。
初めて見た時から、彼等が他とは根本的に違う人間だということには気付いていた。
そして、恐らく骸は雅のそんなところにも勘づいているのだろう。
少し視線を反らした雅の髪に、口元に笑みを浮かべたまま手を伸ばす。
雅も優しく触れるその温度に目を細め、毎日のように焦がれるオッドアイを見つめた。
「骸は、行かなくて良かった?」
スルリと自分の髪をすり抜ける綺麗な手の映像が、スローモーションで脳へと届く。
「いいんですよ。僕にとっては雅といる時間の方が大事ですから」
そう言って、骸は雅の前髪をそっとかき上げた。
冷たい手に、壊れ物を扱うような仕草に、眩暈がする。
彼のその言葉に偽りがないことは承知の上だ。
自分のことを大切に想ってくれているのも、その想いの大きさも、分かっている。
見た目も能力も普通で一般人の自分。
一つだけ、他とは違うことと言えば、桁外れなこの世界への憎しみか。
それに気付いて近付いてきた骸だからこそ、こんなにも惹かれたのだろう。
黙り込む雅の顔を、骸は愉しげに覗き込んだ。
「何を考えているんですか?」
「…骸、貴方は一体私のどこが好きなの?」
表情も変えずに問われた言葉に一瞬きょとんとすると、次の瞬間には声を上げて笑う。
「っクハハ!貴方という人は…そんな事を考えてたんですか。勿論、全部―、ですよ」
彼女の漆黒の瞳に映る自分の姿を確認しながら、骸は口の端をつり上げた。
―そう、全部。
初めて見た時から興味を惹かれた。
教室に入った時から、一見目立たない大人しそうな雅が、やたら気になった。
そして視線が交わった瞬間、その目を見た瞬間に心を奪われたのだ。
誰も当てにしていない、一人で生きていくと決心した者の持つ、深い黒。
それを覆う、周りに向ける柔かい笑顔。
どこか自分と似た彼女を気に入り、傍に置くことになるのに、そう時間はかからなかった。
自分でもここまで溺れることになるとは思っていなかった。
初めに惹かれたその瞳は勿論、その低めの声も、白い肌も、少し癖毛な髪も、考え方も、周りに対しての仮面でさえも、彼女の全てが好きだ。
愛しい少女の額に、ゆっくり口付ける。
「―雅、」
自分を呼ぶ声に、雅はピクリと反応した。
耳を擽る甘いそれに、脳が麻痺しそうだ。
耳を塞ぎたくなるのを必死に堪える。
「愛してます」
思考回路を断つ、麻薬擬の言葉が全身から浸透した。
乾燥する唇を引き締めて、雅は目を瞑る。
骸の気持ちを疑う気は毛頭ない。
ただ、愛情というものを受けずに育った彼女には、骸の想いは受けきれなかった。
戸惑った。
自分の想いの伝え方も分からなかった。
熱くなる目元にうつ向いて、額に当てられた彼の手に両手を添える。
「…雅?」
震える手と、パタリと落ちた雫。
膝に乗る本の表紙に飛び散った彼女の涙に、珍しくも焦る自分がいた。
微かに眉を潜めて心配そうに見守る中、雅の薄い唇が開く。
「むく、ろ…」
揺れる音程、今にも消えそうな声に耳を澄ませた。
「―ッいなくならないで…!」
かすれた叫び声が届く前に、思い切りその華奢な身体を抱き締める。
彼女の膝から滑り落ちた本の音が響く。
骸は今までとは一変した、困ったような微笑みを浮かべて、雅の温度に触れる腕に力を込めた。
「いなくなんてなりませんよ。ずっと隣にいます」
冷たい手の温度に反する温もりと優しい囁きに、うっすら開けた視界が滲む。
こんなに想ってくれているのに、自分には返せない。
骸の気持ちに応えられない。
同じ好きでも、大きさが違い過ぎるのだ。
彼の愛は大き過ぎる。
今の雅には、骸の優しさが怖かった。
「…愛してます、雅」
言い聞かせるように、再度脳に届く信号。
切ない響きに、骸が消える錯覚に陥る。
きっと、いつか彼は自分の前から消えるだろう。
だったら愛なんて苦しくなるだけ。
だから、お願いだから、これ以上気持ちを育てないで。
育てさせないで。
唇をかすめた温度に、涙が頬を伝った。
愛してるなんて言わないで、好きって言って?
(気持ちが膨らむ度に、怖くなるの)
(言葉に乗切らないほどの君への愛に、気が狂いそうだ)
誰よりも、何よりも。