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負けっぱなしは癪ですから






「…絆創膏は、っと」



 薬品の匂いが空気に溶ける一室に足を踏み入れた雅は、一直線に薬品棚へと向かった。
 常連は恐らく皆、同じ行動をとることだろう。

 なんといっても、ここは“無人の保健室”と呼ばれる名所だ。
 いつ何時訪ねても担当医がいないことから、セルフサービスとまで言われている。
 しかし不思議なことに薬品の管理やベッドメイキングなどは常に完璧であり、そこがまた謎を呼んでいた。



「−あれ、消毒液は…」



 絆創膏を取り出したのはいいが、相方が見つからない。
 雅は頻繁に利用するために配置は熟知しているつもりだったため、顔を斜めに傾けた。
 とりあえず傷口の水洗いはしてあるし、最悪そのままでいいかと振り返った瞬間−。

 目の前に、消毒液が現れた。



「−すいません、消毒液ここです」

「っうひゃあ!?」

「あ、」



 くるりと回転した先に人がいたものだから、反射的に仰け反る。
 勢いよく後ろにダイブした頭に温度が触れた。

 ガチャン。



「…、」

「うっわ、ごめんなさい先生…!」



 後ろの薬品棚にぶつかる前に、彼が間に手を滑り込ませてくれたらしい。
 そのまま引き寄せてくれれば問題なかったのだが、生憎そこまでの筋力は持ち合わせていないようだった。
 硝子の揺れる音と後頭部に伝わった振動に、慌てて首を前傾させて彼の手をとる。

 やはり少々赤みがさしている手の甲に眉を寄せた。
 それを宥めるように、空気に淡い笑みが滲む。



「大丈夫です。驚かせてすいません」



 色素の薄い髪を揺らした青年に対し、雅は腰に手を当て詰め寄った。



「ほんとですよー、その神出鬼没やめてくださいマジで。多分黒子先生の存在知ってる人めちゃ少ないですよ。保健室の噂知ってます?普段一体どこに隠れちゃってるんですか。まあ先生が出る幕もないくらい平和ってことかな。あと庇ってくれたのは有り難いですけど結構無茶しますよね。手赤くなってるし…もっと腕力つけないと。あ、消毒液一杯に入ってる!さっきはもしかして詰め替えてくれてたんですか?ありがとうございます」

「…はい。飴凪さんは相変わらず元気そうで何よりです」



 息をつく間もない彼女の怒濤の話題に、ひとつひとつの返答は諦めたらしい。

 軽く首を縦に動かした黒子は、なみなみと液の揺れるビンをテーブルに置くと、雅を丸椅子へと促した。
 素直に誘導された女生徒は軽やかに椅子を一回転させたのち躊躇なくスカートをめくり上げる。
 白い膝小僧と、結構な広範囲の擦り傷が覗いた。

 それを目にするなり、向かいの椅子に落ち着こうとしていた黒子は動きを止める。



「…飴凪さん、これは絆創膏じゃ無理です」

「あれ、だめですか?」

「ガーゼで処置するので待っていてください」

「はーい」



 満面の笑みで黒髪を揺らし、再び棚へと向かうその存在感の薄い後ろ姿を嬉しそうに眺めた。


−無人と言われる保健室。
 雅は、その担当医の存在を認識している数少ない人間だった。
 元々活発で、小中学校と保健室に通い詰めていた彼女にとっては、高校に上がってからもここに馴染むのは実に容易かった。

 黒子の影の薄さにも初めこそ吃驚したものの、慣れてしまえば彼ほど居心地のいい人間はいない。
 最近はなにかと理由をつけては覗いているが噂も伊達ではなく、流石に毎日会えるわけではないため、会えるとテンションが跳ね上がる。

 両足をぷらぷらと遊ばせていると、足先に陰りが差した。



「お待たせしました。診せてください」

「お願いしまーす」



 必要物品を揃えた黒子が消毒液を準備しながら視線を流す。



「また派手にやりましたね。今日はどこで転んだんですか」

「昼休みのパン争奪戦の勲章です」

「そうですか、その様子だとお目当てはゲットできたみたいですね」

「ばっちりですよ!愛しのメロンパンと焼きそばパンは美味しく胃袋に収まりましたっ。ね、今度一緒にお昼食べましょうよ」

「考えときます」

「それ前も聞きましたー」



 結局食べてくれたことないじゃないですかー。

 つんと唇を尖らせてそっぽを向いた彼女に、黒子は困ったように眉を下げた。



「…すいません、特定の生徒とお昼をとるのはちょっと難しいんです」

「んー、まあそうでしょうね」



 分かりました。

 にこーっと頬を緩める女生徒に、ぱちりと瞳を瞬かせる。
 彼女の第一印象は、三年間たった今も変わらない。
 活発で、周りを明るくする雰囲気があって、しかしどこか聡い。
 何とも不思議な子だ。

 しかし、ほぼ毎日のようにこの場所に需要があるのはいただけない。
 丁寧にガーゼをあてながら、諭すように口を開いた。



「活発なのは飴凪さんの魅力ですけど、怪我にはもっと気を付けた方がいいです」



 女の子なんですから。

 珍しく少し強めに念を推してくる口調にちょっとした胸の高鳴りを感じながらも、雅は楽しげに双眼を細める。



「えー、でも昼戦争には参加しないとやっていけません!」

「だったらボクが買ってきますよ」

「確かに先生だったら楽勝っぽい…ってそれじゃあパシってるみたいじゃないですか」

「女の子に傷が残るよりマシです」

「おお…先生ってば男前ー」

「初めて言われました」



 本人からすると本当に意外だったらしい。
 きょとん、とした瞳に特に意味もなくきゅんきゅんした。


 相変わらず先生ってば超可愛い…!


 抱きつきたくなる衝動には耐えたが、その反動が言葉の方に変換される。



「じゃあお嫁にいけなかったら黒子先生が貰って下さい!」



 冗談一割、本気八割、理想未来像一割。
 勢いに任せた逆プロポーズ擬きだが、雅にとっては駆け引きの一種だった。
 昼食に誘うときのような毎度ながらの感覚で、にこにことリアクションを待つ。

 あまりに短い沈黙後、大好きな空色がゆるりと動いた。





「…−いいですよ」

「ですよねー…、…え?」



 いつもの透明な音が鼓膜を通過して、しかし脳が処理に追いついていない。
 返ってくるはずの反応と異なっている。

 警告、errorが発生しました、再度試行して下さい。

 そんな業務的な一文が頭の中に流れ、しかしすぐに我に返る。



「ちょ、先生も一回!私聞き間違えた!?」



 慌てて身を乗り出すが、肝心の当人は涼しげな表情を崩さなかった。
 最後の仕上げのために再度雅の膝元に下げていた視線が上がり、戸惑う彼女のものと絡む。



「はい、終わりました。毎回の締め台詞ですけど、次からは気をつけて下さい」

「やーっはぐらかさないで下さいよーっ」

「早く行かないと授業始まりますよ」

「え?っわーっ手当てありがとうございましたまた来ますからねー!」



 黒子が示した時間に跳ね上がるようにして椅子から立ち上がると、よく褒められであろう黒髪を翻して廊下に飛び出した。
 パタパタと軽めの足音が遠ざかるのを聞きながら、そっと唇の端を持ち上げる。



「…待ってます」







負けっぱなしは癪ですから


(卒業するまでは勝つつもりはありませんけど)
(今日は五分五分…いや、やや劣性かなあ)


時々、どきどき。






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