悪いのは、僕ですか?
◇
雅は、混乱していた。
後ろは壁で、背中からひんやりとした温度が伝わり体温を奪っていく。
同時に、頭も冷水を浴びせられたかのような感覚だ。
原因は、目の前に迫る知人にあった。
「…それで、“彼”との関係は?」
「安室、さん?」
現在、雅を壁際に追いつめている人物が普段と全く違うことが、彼女の思考を奪っていた。
態度や雰囲気が、自分の知っているそれではない。
「質問に答えてください。何故、“彼”と一緒にいたのかを」
「彼…って」
片肩を押さえつける安室の手に力が入り、ますます困惑した。
いつもの人当たりのいい笑みも、時々見せるあどけない表情も、困ったような笑い方も。
雅の知っている彼は、どこにも見つけられなかった。
どこか切羽詰まったような、憎しみさえちらつく鋭い視線に射抜かれて、全く頭がまわらない。
そもそも、彼の言っていることが分からないのだ。
何がどうしてこんな状況になったのかも、思い出せない。
「…答えられない、か」
ふう。
思考回路が繋がらないまま、彼の重いため息が空気に沈んだ。
捕まれていた手首と肩への圧迫感が消えるのを感じ、緊張が一瞬弛む。
しかし、するりとそのまま絡みとられた指先と、顎をとらえた温度に息がつまった。
誘導された視線の先、知的な双眼の奥に熱っぽさと野性的なぎらつきを視る。
指の間に入り込む人肌も、下唇に触れる親指の感触も、リアルなのにどこか他人事のように感じた。
我にかえったのは、見慣れた髪色が揺れて、既に馴染んだ香りが急接近してから。
「−っあむ、」
空気に低い笑いが滲んで、そこで視界が暗転した。
「っわぁ…!は、…え?」
がばりと飛び起きた雅は、瞠目した。
ゆったりと瞬きを数回繰り返して、辺りを見渡す。
ガタンゴトンと心地よい揺れと、流れる景色。
大学帰りの電車の中であったと認識するのに、そう時間はかからなかった。
平日の昼間ということもあり、乗車客が少なかったのが幸いか。
突然の雅の叫び声に驚いたのか、数人のチラ見があったが、雅が頬を染めて俯いたのを確認すると、各々の世界に意識を戻した。
居心地悪くその場に座り直すが、左胸で暴れる心臓は、落ち着きを取り戻せない。
顔に集中した熱も、そのままだ。
「…なんて夢…」
夢だったと脳が認識したにも関わらず、リアルに身体に残る感覚が呼吸を乱した。
あんな夢を視るだなんて、欲求不満だろうか。
火照る頬を掌で覆い冷やしながら、電車を降りる。
本来ならば安室のバイト先である喫茶店に寄って課題を進めようと考えていたが、これはもうそんな状況ではない。
今、彼を見て平常心を保てる自信などないに等しい。
かと言って、真っ直ぐ帰るにはいささか時間が有り余る時間帯だ。
そういえば牛乳が切れていた気がするし、蜂蜜入りホットミルクでも飲みながらだったらはかどるかもしれない。
そう結論を出すなり、向かう先を変更してスーパーへと足を運んだ。
自動ドアをくぐり抜け、いざ飲料コーナーへと踏み込む寸前。
夢のこともあり、意識散漫だったのだろう。
いつもなら絶対にしないミスだった。
−曲がり角から出てきた人影を、認識したと同時に衝撃を受ける。
「っわ…」
「おっと、」
額に軽く振動を感じた次の瞬間には、ふわりと引き寄せられた。
勿論、助けてくれたであろう相手には感謝の気持ちしかない。
問題は、刺激された聴覚と嗅覚だった。
たった一言でもわかる、あまりに耳に馴染む音と、嗅ぐのが当たり前になりつつある香り。
恐る恐る顔を挙げれば、やはり頭を占めていた色がちらついた。
「−すいません…って、雅さん」
「っあ、むろさん…」
こちらを確認するなりパッと輝く表情が、逆に夢の彼とのギャップを甦らせる。
それに加えてこの至近距離だ。
軽く触れられているだけのはずの腕や肩への感触が、ダイレクトに脳に伝わった。
「なんで…今はバイト中じゃ…」
「ああ、実は具材が切れてしまって。買い出しに来たんです」
「買い出し…」
「はい。でもこんなところで会えるなんて…、雅さん?」
ぐるぐる回る脳内を叱咤しながら必死に会話を続けていたが、いよいよ雅の様子を不審に思ったらしい。
僅かに眉を寄せた安室の手が、額に移動した。
「ひゃ、わ!?」
「大丈夫ですか?顔も赤いようですし、もしかして熱があるんじゃ…」
「っ大丈夫じゃないです!」
「え?」
ただでさえ意識しているというのに、直接肌に触れられてはたまったものではない。
彼は紳士的ではあるが、ここ最近は特にアピールが強い。
さりげなく、気がついた時にはドキドキシチュエーションに持ち込まれているのが大抵だ。
爆発する!
これ以上距離をつめられては流石に心臓がもたないと、安室の胸を押し返した。
そんな反応を予想もしていなかったのだろう。
あっさり彼の温度は離れ、二人の距離がひらく。
「雅さ、」
「ごめんなさい安室さん、今は顔見れません!帰ります」
「え」
言葉を遮って、彼の視線を受け止めることもなく髪を翻した。
見慣れた後ろ姿が自動ドアの向こうへ消えたところで、安室はやっと我にかえる。
普段ならばすぐに追いかけるところだが、今までに経験のない雅の言動により、柄にもなく思考が停止してしまっていた。
確かに最近はかなり積極的にアプローチをしていたが、彼女からは困惑や照れという感情は滲んでも、拒絶はみられていなかった。
地道なアピールの甲斐あってか、最近はそこそこ彼女に異性として意識され始めている自覚もある。
それが、先程のそれは完全にこちらからの情報をシャットアウトしていた。
強張る身体に、どこか遠くを視るような瞳。
双眼にちらついていたのは、僅かな恐れだ。
何かしただろうかとざっと記憶を辿るが、昨日は普通に差し入れをして一緒にお茶をしたくらいだ。
特に思い当たる節もない。
ましてや彼女に対して仕事の顔を見せるなんて失態をさらした覚えもない。
怯えさせているというだけならば、さっさと原因を突き止めて誤解をときたいところだが。
「…まいったな」
先程の、雅の表情が頭から離れない。
拒絶や恐怖だけしか感じ取れなければ流石にショックを受けるしかないのだが、上気した肌と潤む瞳からは、確かなこちらに対する熱っぽさも読みとれたのだ。
笑顔が見たくて差し入れをするし、照れた顔を見たいがために少々攻めのアプローチを仕掛けることもあるが、彼女の“女の顔”を見たのは初めてだった。
本人に自覚があるかは不明だが、安室の思考を数秒間奪うには十二分の威力があったのだ。
もちろん、あんな顔を向けられるのは進展と考えていいだろうし、大歓迎ではある。
しかし、やはり理由が思い当たらない。
そもそも、これからもあんな状態で避けられては困る。
この先のアプローチ方法の参考にも、有益な情報になり得そうだ。
「−とりあえず、原因からか」
どこか愉しげな呟きは、誰に届くでもなく空気に溶けた。
悪いのは、僕ですか?
(どうしよう暫く顔もまともに見れない)
(さて、明日の差し入れは何にしましょうか)
ゆめゆめ、うたがうことなかれ?
おまけ(笑)
「あれ、雅さんじゃん。そんな所でうずくまってどうしたんだよ。具合でも悪いのか?」
「っ世良ちゃん!どうしよう私もしかしたらマゾっ気があったのかも…」
「はあ?」
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[mokuji]
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