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逃げちゃ駄目ですよ



 喫茶店の一角で、向かい合わせに座った男女のグループが盛り上がりをみせていた。



「じゃあ自己紹介からいってみよーか」

「なんだよいきなり仕切りやがってー」

「いいじゃんいいじゃんどんどん仕切ってー」

「誰からいくー?」

「じゃあ王道に言い出しっぺから時計回りでー」

「げ、王道とかあんの?!ここは公平にジャンケンで…」

「男らしくないぞー」



 あはははは。

 賑やかな空気の振動がその場を満たすが、たった一人。
 雅だけは、そこにいながらその空間に融け込めていなかった。

 といっても、容姿や性格的にという意味ではない。
 確かに、黒髪で控えめな雰囲気も露出の少ない服装も、他のメンバーと比較すれば消極的ではあるが、人一倍化粧映えする顔立ちが彼女にはあった。

 友人に頼まれ、普段はしないメイクまでして合コンとやらに引っ張られてきたまでは、いい。
 適当に食べるだけ食べて、会話を楽しんで帰るつもりだったのだ。
 しかし、問題は彼女の視線の先。

 先ほどからやたら女性客の視線を集めているウエイターに、見覚えがありすぎた。



「嘘でしょ…」



 何故こんなところでバイトをしているのだと突っ込みたいのは山々だが、聞いてくれる人はいない上に、それどころではない。
 このままでは下手をすると注文時にでも鉢合わせする勢いだ。

 通路側に座っていたのをこれ幸いとばかりに、ウエイターがホールから消えたのを確認するなり手早く荷物をまとめた。



「あれ、雅ちゃんどこ行くのー?」

「…ごめん、ちょっとコンタクトずれちゃったみたい」

「えー早く戻ってきてよー」

「はいはーい」



 唇を尖らせる友人に万人受けする笑顔を返し、足早にテーブルから距離を置く。
 彼女達には悪いが、ここはこのピンチを切り抜けるのが優先だ。
 幸いなことに、合コン席は一番奥を乗っ取っており、あちらからトイレと出入り口のどちらに向かったかなんて確認できない。

 謝罪メールは後で打つから!

 心の置き手紙を書き終えると、ペンを放り投げるかの如くペースを上げた。
 自動ドアまで五メートルを切り、勝利を確信したその瞬間。

 人影が視界を覆った。
 調理場から出てきたスタッフと鉢合わせてしまったらしい。



「っわ!?」



 慌ててブレーキを総動員するが、反応しきれない。

 とん。
 肩への軽い衝撃に、相手に受け止めてもらったことを理解した。

 しかしその際に微かに鼻腔を掠めた香りに、ふと過ぎる親近感と冷たい予感。
 いやいや香水なんて生産量と同じだけの使用者がいるんだぞ。
 自己暗示の如く自分に言い聞かせて僅かな希望にかけるが、次の瞬間には打ち砕かれる。



「−失礼致しました」

「!ひ…」

「お怪我はございませんでしたか、お客様?」



 あまりに聞き慣れた声。
 ぎぎぎと、機会仕掛けのような動きで頸部を操作すれば、まさに今逃れようとしていた相手が優雅に微笑んでいた。

 総て計算済みであろう。
 肩に添えられた手により、どうにも身動きがとれない。

 昨日見たばかりの笑顔に、引きつり笑いを送り返す。



『−明日?ん〜…ごめん安室さん、ちょっと先約入ってる。ううん、女友達だから平気だってば』



 何の罰か。
 己の台詞が記憶から抜粋されて頭の中で響き、タラリと何かが背中を伝った。



「あ、の…これには理由が…」



 口ごもる雅に、伊達眼鏡の奥の瞳が柔らかく細められる。
 思わず身を退こうとする彼女の肩をやんわりと引き寄せて、安室は軽く腰を屈めた。
 揺れる髪色が、視界の中でその存在を激しく主張する。



「−バイト、午前中までなんです」



 普段よりやや低めの音が、甘い痺れを織り交ぜて耳孔に進入した。






逃げちゃ駄目ですよ


(いやいやいや、なんでここにいるの…!)
(さて、デートの時すらメイク姿なんて見たことなかった筈ですけど)


きらりひかる、なに。








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