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暫くは僕のことだけ考えていて下さい



 カチリ。
 カチカチ。

 秒針の音が主張する部屋の扉が控えめに開けられた。
 そこからひょっこりと顔を出した安室は、完全に三次元との交流をシャットアウトしている彼女に困ったように笑う。
 数回に及ぶインターホンにも反応がないわけだ。



「…雅さん」



 部屋に足を踏み入れソファーへと歩み寄るが、雅の視線は、現在の彼女の世界を構成しているモノから離れそうもなかった。
 一応存在だけは認識してくれているのか、閉じられたままの唇から返事だけが空回る。



「んー」

「ご相談があるんですが」

「んー?」

「今日の夕食についてなんですけど」

「ん〜…」

「…ちょっと失礼します」


 
 ひょい。

 隣に座り、自分とは対照的な白い手から文庫本を浚うと、やっと意識がリアルに戻ってきたらしい。
 年齢より幼い印象を受ける大きな黒目が、恨めしげに瞬いた。



「…む。何するの安室さん」

「すいません、会話が成り立ちそうもなかったので。僕の話聞いてました?」

「ごめんなさい、熱中してた。お帰り」

「でしょうね。…これは、推理小説ですか」



 パラリと視線で文章をなぞると、探偵が今まさに犯人を追いつめるシーンらしいことが分かる。



「そう、最近ハマってるやつ。今丁度いいとこなんだけどなー返してほしい」



 隙をみたつもりなのか。
 えいと伸びてくる腕を難なくかわすと、少し長めの睫毛が細かく上下した。
 結構な付き合いであるため分かる、拗ねる前兆だ。
 普段は周りが吃驚するくらいお人好しの癖に、趣味が絡むといきなり子供になるのは出逢った頃から変わらない。

 そして、己の幼稚な闘争心も相変わらず。
 彼女の興味を惹くものとあらば、本の登場人物にすら敵対心が芽生えてくるらしい。
 それが“探偵”となれば尚更だ。

 安室は少し思案したのち、ニコリと前髪を揺らして小説を掲げてみせた。



「…じゃあ、今からあるものを推理していただいて、答えがあっていたらお返ししますよ」

「推理?」



 案の定、食い付いた雅にほくそ笑む。


「はい。今日の夕飯、当ててみて下さい」

「夕飯?それって推理も何もないんじゃ…」

「それはどうでしょうか。作るのは僕なんですし、色々推理材料はあると思いますけど。まあ雅さんがやめておくって言うのなら、」



 本を手にしたままよっこらしょと腰をあげようとすると、間髪いれずに制止がかかった。



「待って!」



 握られた服の裾に微笑んで、再び腰を落ち着ける。

 彼女の性格も熟知している自信があった。
 推理好きで、筋金入りの負けず嫌い。
 そんな雅がこの手の話に乗らないわけがない。
 既にこんな薄っぺらい紙束のことなんて、頭の隅っこの方に追いやられていることだろう。

 脳内は、完全に“夕飯”と“その料理人”に占領されている。



「今日は土曜日だから…近くのスーパーは肉が特売日だったよね。隣町では牛乳と卵が安かったはずで…安室さんは夕方から出かけてたし…、…安室さんだったら……、…」



 乱れてもいない髪をしきりに撫でつけるのは、集中して思考を巡らせている時に見られる癖の一つだ。
 不規則な指の動きに合わせて、軽やかに毛先が波打つ。
 挑発を挑発とも気付かずに受けて立った彼女を嬉しそうに見つめるが、はたりとその黒髪が静止した。



「…でもこれに何の意味があるの」

「−あれ、やっぱり難しかったですか?」

「っ当てる!絶対当てる…!」

「さすが雅さん。では僕は夕飯の下準備を始めますね」


 
 その両眼と意識が己に向いていることを確信すると、満足そうに踵を返した。







暫くは僕のことだけ考えて下さい


(さてと、何を作りましょうか)
(…この人何でも作れちゃうからこういう時困る)


犯人はお前だ、もどき。












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