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そろそろ覚悟した方がいいですよ






 かたかた。

 キーボードを叩く指の音が無機質に響く。
 ひたすら画面と睨めっこをしていた雅は、そんな空間に侵入者があったことに気付けなかった。
 不意に視界を横切った影に、反射的に仰け反る。

 後先考えずにそのまま椅子ごと天井を仰ぎかけた彼女の背を、やんわりと温度が受け止めた。



「−すいません、驚かすつもりはなかったんですが」



 背後から降り注いだよく耳に馴染む音に、そっと息を押し出す。



「もう、安室さんってば相変わらず神出鬼没…急に現れないでよー」

「雅さんの集中力も素晴らしいですよ。息抜きにと思いまして、差し入れにきました」



 先程の影は彼の腕だったらしい。
 にこやかに示された先にはテーブル隅に置かれたパンケーキがその存在を主張していた。
 ほくほくとたつ湯気に、溶け合う蜂蜜とバターが何とも言えない。

 同時に反応しそうになる腹部に、己の熱中具合を自覚する。



「それはどうも。つくづく思うけど、安室さんって差し入れし慣れてるよね。やっぱり何か裏があるの?」

「あはは、やだなあ。まあ思惑がないと言えば嘘になりますが、雅さんへの差し入れに関しては純粋に労りの気持ちしかありませんから」

「…そうなんだ」



 気持ちは嬉しいが、裏を返せば自分以外への差し入れにはばっちり下心があるということか。
 何とも爽やかに返された答えに複雑な心境で唇の端を引き上げた。
 そんな雅の内心に気付いているのか否か、安室はとぼけたようにパソコン画面へと興味を移す。



「それで、論文の進み具合はどうですか」

「あ、うん。ぼちぼちかな」

「卒業論文、でしたっけ」

「そう、提出しないと卒業できないから必死」



 苦笑いを浮かべながらパンケーキへと手を伸ばすと、フォークを突き刺してかぶりついた。
 元々食べ方は盛大なため初対面の人間は大体吃驚するが、彼の場合はそんな盛大さを気に入ってくれているとのことなので特に気にしない。
 五感総てを満たす甘さに表情を緩めていると、若干いつもより弾んだ音が鼓膜を揺らす。



「−じゃあ、もうすぐですね」

「そうだね、日もないね。こちらは焦ってるからそんな嬉しそうに言われると複雑なんですが」

「ああ、すいません。僕としては一刻も早く卒業していただきたいので」

「…何か約束してたっけ」

「いえ、これからです」

「はい?」



 また訳の分からないことを。

 何か含みを感じる言い回しに、フォークを置いて顔の向きを変えようとした。
 しかし、それを拒むように両肩に低めの温度が滑る。



「−在学中は集中力に欠いても問題ですから大方抑えてましたけど、」



 先ほどまでは背後から背もたれに両の手を置いていただけだった安室が、体勢を変えたらしい。
 そのまま少し屈んだのか、動く空気に合わせて、男性物の香水がふわりと鼻腔を撫でた。
 間もなく、安室自身の音が殆ど距離もないような位置から侵入する。

 後部から酷く低く響いた囁きに、本能的に膝上の指先を握りしめた。







そろそろ覚悟した方がいいですよ

(鈍い子にも分かりやすいくらいのアプローチに変えますから)
(卒業したいような、したくないような…)


思考回路、かちり。









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