あなたの目を見る才覚が足りない
◇
視界を被うほどの土煙の中、エーレは目を瞠った。
確かに、自分は捌ききれないレベルの攻撃を受けたはずだ。
ヴィアベルとシャルフの叫び声も耳に届いていた。
ただ、2人の援護はコンマ1秒間に合わなかった。
相当のダメージを覚悟していたのに、今感じているのは衝撃や打撃や無機質なものではない。
肌に感じる氷のようなヒンヤリとした冷たさと、人肌独特の温もりに思考が追いつかない。
視界が晴れてきた中、地面と己の手の付近にパタリパタリと落ちる赤をただ目で追った。
攻撃を塞いでくれたのは防御魔法の類などでは、ない。
それが目の前の女性の血であることを理解するのに時間は必要なかった。
たった数時間前、知人であるヴィアベルから紹介された初対面の時と同じ柔らかさで、春のような笑みと声が鼓膜を優しく揺らす。
「…ーエーレさん、お怪我はないですね?」
エーレを抱きしめるように覆い被さった彼女から生み出される表情と音は穏やかすぎて、現状とのアンバランスさに鳥肌が立った。
至る所から流れ出る出血からしても、通常であれば呼吸をするのも辛いはずだ。
「雅っな、んで…っそれよりも貴方その傷…!」
「ご心配なく、人より多少回復が速いので」
「そんなレベルの怪我じゃ…っ」
あくまでゆるりと笑む雅の身体を視認しようとしたあたりで、敵を始末した2人が到着した。
「っくそ、大丈夫か?!」
「エーレ、雅…!」
駆け寄る2人も状況を把握するなり息を呑む。
いち早く思考を冷却したヴィアベルが音もなく傍に屈むと、労るように視線を落とした。
「雅、エーレを助けてくれて感謝する。守るっつったのに怪我させちまって悪かったな、手当するから見せてくれ」
「傷は、…!」
シャルフもやや後方から続くが、たまたま視界に入った白い腕の傷の変化を目にして言葉に詰まる。
ぱっくりと開いていた傷口が、目の前で塞がっていくのをただ呆然と見送った。
勿論、今この場に聖書を扱える者はいないため女神様の魔法でもない。
まるで映像を早送りしているかのような現象に、現実味が薄れていく。
「どういう、こと…」
エーレの呟きも地面に消えた。
腕だけではない。
致命的だと思われた腹部の傷も含め、頭の傷や細かい擦り傷まで、みるみるうちに止血されていく身体に酸素の供給すら忘れて魅入った。
「…、見ての通りです。言ったでしょう、人より回復が早いので大丈夫ですよ」
その反応に困ったように、どこか寂しそうに笑う姿に対してかける言葉が見つからない。
意図的だろう。
するりと2人から外された視線にあわせて、流れるような黒髪が雅の表情を隠した。
自分たちのリアクションがひどく彼女を傷付けてしまった気がして、蝕む罪悪感に耐えきれずシャルフは隣の温度に縋る。
この世界でこれだけの自己治癒能力がある存在と言えば、殆どの者が意識をしなくとも魔族を連想してしまう。
合理的で観察眼に長けたヴィアベルが自分たちに紹介したことや、エーレを身を挺して庇った事実からしてもその可能性はないだろうが、少なくともただの一般人ではないことは疑いようがないだろう。
ただ1人、驚く様子も見せずにその様子をただ傍観していたヴィアベルに矛先を向けた。
「…ヴィアベル、説明してくれ」
「ー、説明もなにも、最初に紹介した通りだよ。それ以上でもそれ以下でもねぇ。とりあえず敵意がないのは保証できるぜ」
誰に言い聞かせるでもない。
彼女への意識を外すことなくただ当然のように放たれた台詞に、ピクリと華奢な肩が波打つ。
それを一番身近で感じたであろうエーレが、一瞬瞳を伏せたのちにその温度のない身体に両腕を回した。
「…そうね。怪我が早く治るならそれに超したことはないわ。雅、助けてくれて本当にありがとう」
「そうだな。驚いて悪かった。雅のおかげで助かった」
不意打ちの抱擁と感謝の言葉に困惑したように目を見張った雅だったが、一呼吸おいてからふわりと口元を崩す。
「…ーいえ。ご心配、ありがとうございます」
僅かに潤む双眼に明らかな歓喜の色を見て、その色彩を目の当たりにした2人は数刻前とは違う意味で固唾を呑んだ。
ひどく時間の流れが長く感じるその空気の中、今まで身動ぎもしなかった男が動く。
「感動しているところ悪いが、怪我の具合は一応確認させてもらうぜ」
「え、」
空気のような自然さで頬に触れた温度に、長い睫毛が震えた。
ヴィアベルが親指を滑らせるようにしてその白い肌に付着する赤を拭うが、傷は跡形もなく消えている。
「…へえ、本当に治りが早いんだな」
その肌の滑らかさに内心戸惑うものの、そんな感情は微塵も出さずに感心したようにニヤリと唇の端を引き上げた。
「…、」
「表面上は治ってるみたいだが、内側へのダメージもあんだろ。そっちはどうなんだよ。痛むところはねぇのか?」
「…、…」
「?おい、」
続く沈黙。
質問をするものの全く返ってこない反応に訝しげに眉を顰めるが、様子を窺っていたエーレが口を挟む。
「ちょっとヴィアベル、いくら何でも女性にそんな不躾に触るのは、…え?」
同性同士、何か思うところがあったのか。
気持ち2人の間に割り込むように雅への抱擁の力を強めるが、次の瞬間に空を切った己の腕に呆けた。
「は?」
「?!」
一瞬で3人の前から忽然と姿を消した彼女に各々が驚愕を浮かべていると、どこからか聞きやすいソプラノが風に乗って流れてくる。
一斉にそちらに顔を向ければ、10メートルほど離れた先で何故か土下座の形をとる雅が映った。
一体どうやってその距離を瞬間移動したのだとか、そんな疑問も吹っ飛ぶ内容が彼らの思考を満たす。
「ー、すいませんヴィアベルさんを直視すると唾液が急激に増加するので一時的に距離をとらせていただきました。お見苦しいところを見せないための対処であって決して負の感情からではありませんのでお許しください。煩悩に打ち勝つために暫くこちらで懺悔させていただきます」
つらつらと流暢に耳に届く台詞は確かに日本語なのだが、初見では中々理解ができない。
否、恐らく回数を重ねたとしても理解は難しいかもしれなかった。
たっぷり10回ほどの瞬きを終えて、エーレとシャルフがポツリと呟きを漏らす。
「…ヴィアベル、私には彼女が何を言っているのか分からないわ」
「唾液?ヴィアベルと何の関係があるんだ」
「ああ、深く考えなくていい」
どこか遠い目をしたヴィアベルが、真剣な声色で会話を終了させた。
ー数分後。
何とか落ち着きを取り戻したらしい雅の元に、3人がバラバラと歩みを進めた。
「そろそろ行くぞ、動けそうか?」
先頭を切っていたヴィアベルが気遣うように前髪を揺らすが、申し訳なさそうに彼女の眉が下がる。
足首を撫でる様子から、まだ歩けるほどには回復できていないのだと察した。
普通であれば瀕死レベルのダメージを受けていたのだから今の状態だけを見れば万々歳だが、本人からすると大層不服らしい。
「…すいません、動けるようになるにはもう少し…」
「やっぱりダメージあるんじゃねぇか。ったく、仕方ねぇな」
ー目つぶっとけよ。
ため息と共に、落ち着いた声が耳元に落ちた。
ぶわり。
脳が追いつく前に、身体が攫われる。
「っえ?!」
続く浮遊感に伏せがちだった顔を思い切り挙げるが、映り込んだ景色には反射的に両目を手で覆った。
軽々と雅を横抱きにしたヴィアベルは、既にそのまま歩みを進めている。
そんな様子に何を考えたのか。
気持ち、ニヤニヤと頬を緩めた2人が後に続いた。
「私達の時とは大分扱いが違うじゃない」
「俺はおんぶもしてもらえなかった」
「うるせぇよ!お前らの時と一緒にすんな。運んで貰えるだけマシと思え。あとシャルフ、お前はおんぶを選択肢にいれるんじゃねぇよ男だろ」
テキパキと突っ込みを入れていると、控えめに胸元の服が引っ張られる。
「…ヴィアベルさん、」
「あ?なんだ、唾液うんぬんならそのまま目つぶって我慢して、ー」
恐らくまた例の訴えだろうと当たりをつけて腕の中に視線を戻すが、まさかの事態に急停止する。
魅惑の双眼を覆っていたはずの白い指先が何故か鼻付近に移動していた。
あろうことかそこからチラつく鮮血に柄にもなく思考が真っ白になる。
「ー、鼻血が止まらないので降ろしていただいてよろしいですか」
「なんでだよ」
「ただでさえ不足している血液が失われると本格的にやばいので」
「そうだろうけどそうじゃねぇ」
表面上は会話が成り立っているようで、実のところ意思疎通が全くできていない。
自分が聞きたいのは何がどうしてそんなことになっしまったのかであって、身体を降ろして欲しい理由ではないのだ。
全力で突っ込みながらも近くの木の根にその身体を降ろして止血を試みる。
そもそも鼻血には治癒は働かないのか。
未だに彼女については謎が多すぎた。
雅は変態だったのね。
ああ、変態だったな。
後ろからの2人の囁きにデジャヴを感じながら、冷たい温度に寄り添ってせっせと世話を焼いた。
あなたの目を見る才覚が足りない
(首元を見れば涎が止まらないし言動で鼻血は出るし、全く困ったものですね…)
(おいおい、他の奴とは目を合わせて会話できるんじゃねぇか)
睨めっこしましょ←秒で負ける。
(お題提供元:花洩様)
2024.4.10
6/33
*prev next#
目次
栞