その月夜に魅せられて
◇
ギシリ。
ベッドに雅を座らせると、ヴィアベルは手早く準備した水を手渡した。
「昨日の今日でこの状況とは、良い度胸してんじゃねぇか」
「あはは、ヴィアベルさんてば怒ってるんですかー?」
「…アンタどんだけ酒に弱いんだよ」
へにゃりと力の抜けた笑みは、普段のしっかりした彼女では到底お目にかかれない。
かと言ってベロベロに酔うほど呑んでいるのかと言われれば、恐らく否だ。
匂いからして、チューハイを一杯も飲んでいないだろう。
前日に少し攻めてみたためほんの僅かの好奇心で反応を窺いにきたつもりが、目にしたのは朧気な足取りで男に送られている姿だった。
思わず後先考えずに身柄を引き取りに行ってしまったが、正気に戻った彼女にどう説明するかが問題だ。
確か職場の上司と名乗っていたため、言い訳が大変だと嘆くに違いない。
…面倒臭ぇな。
何に対してかも分からずにそう呟くと、目の前で水を流しむ度にゴクリと鳴る白い喉に視線を滑らした。
女性の首筋に意識がいくのは吸血鬼の性とも言えるが、そこで目に入ったものに一瞬思考が止まる。
「…。おい、雅」
「なんですか、もしかしてお食事の時間ですかー?」
いつもより明らかにトーンの低い声が出たが、気づいているのかいないのか。
水を飲み終えた雅は、相変わらず普段とは真逆のおっとりした声色で首を傾げた。
固まる彼の葛藤など知るはずもなく、ふふんとやや得意げに笑みを深めると首筋を見せつけるように髪を片側へと流す。
「ヴィアベルさんには普段からお世話になっていますからねぇ、今日は特別ですよー…、ーお好きにどうぞ?」
上気した肌と潤った瞳での上目遣いまで加われば、もはや煽っているようにしか見えなかった。
「…そうかよ。じゃあ、お言葉に甘えるとするぜ」
後で文句言うなよ?
囁くように付け足してから、後頭部に手を滑らせて首筋ー、正確に言うならばやや鎖骨付近に近い部分ーに唇を寄せる。
その“内出血“の痕に噛み付くようにして歯を立てると、流石に痛みを感じたのか。
微かな呻き声と共に、しがみつく指先に力がこもった。
苦痛を与えたいわけではないため、いつも通り耳の裏やらうなじやら彼女の弱いところを撫でてやる。
「っ…は、ぁ」
本日は既にベッドに腰を落ち着けている体勢のため、足腰が立たなくなっても問題はないだろう。
そう割り切って吸血に神経を注いでいると、体温の上昇と共に徐々に意識がはっきりしてきたのか。
肩に添えられていた白い指先がピクリと波打った。
「…、っあの、ヴィアベルさん…」
遠慮がちな音に通常通りの芯が戻ってきたのを確信して、唇を離す。
酒の酔いとは異なる赤みの差した肌に、意図せずとも口の端が吊り上がった。
「どうした、ようやくお目醒めか?」
「…、ご迷惑をおかけしました」
「酔っていても記憶はあるんだな。まあ、言い訳は聞いてやるよ」
「うう…お察しの通り、アルコール分解は苦手みたいで…。いつもは呑まないように徹底しているんですが、今日はお得意様の接客で断れなかったんですよ」
「なるほどな、経緯は分かったぜ」
「それにしても凄いですね。アルコールも一緒に吸い取ってくれたんですか?」
「まるで掃除機みたいな言い方だな…。まあ確かに、血液に混じったもんならある程度は自由にできる」
「便利ですね。なんにしても助かりました」
これで二日酔いにならなくて済みます。
すっきりした表情でお礼を言われたが、こちらもただの善意でアルコールを抜いてやったわけではない。
「そういや、昨日の俺とのやり取りは覚えているんだろうな?」
するり。
先ほど歯を立てた赤い印の残る箇所を撫でてやれば、びくりとあからさまに肩を揺らした。
これはどう見ても思い当たりがあるリアクションだ。
「あ、の…誤解を招いていると思うのですがこれは友達が酔ってふざけてじゃれた時のもので…っ相手は女性ですよ!」
彼女の言い分は分かる。
確かに同性のお遊び半分ならば、戯れ程度で本当に意図などないのだろう。
問題はそちらではなく、それが公共の場で行われたことだ。
色々と敏感な雅のその時の反応は想像に容易く、それが人目に触れたことの方が気に入らなかった。
送ってきた上司とやらの困惑した落ち着きのない様子を思い出して、片眼を細めるようにしてギラリと歯を見せる。
「ー女、ね。ああそうだろうな。言っただろ、匂いには敏感なんだ。残り香で男女くらいは見分けられる」
「わぁすごい!じゃあなぜこんな体勢に?!」
あれよこれよと上半身が倒され、完全にヴィアベルが覆い被さった状況に全力で突っ込みが入った。
血の供給といった目的を外した上でのこういったアプローチは、さすがにダイレクトに意識するらしい。
真っ赤な顔でめいいっぱい押し返されるが、既に力が入らない状態なのか全く抵抗になっていなかった。
目に見えて焦りが滲む初々しい反応に、内心クツリとほくそ笑む。
…へぇ。コイツにはこっちのが効果ありそうか。
つぃと手の甲を頬に滑らせれば、艶のある黒髪が震えた。
「なぜも何も、俺はアンタに言われた台詞に応えているだけなんだけどな」
お好きにどうぞ。と明らかな挑発を受けたのは記憶に新しい。
具体的に言わずとも己のどの言動を指されているのかは理解しているのか、長めの睫毛に付く水滴が増えていく。
「や、あれはその…酔った勢いと言いますか…っ」
未だに抗うことができると思っているのか。
必死に自分に向けられる手を一瞬で絡め取ると、その手の平に見せつけるように唇を寄せた。
「ー、もういい大人なんだ、自分の発言には責任持ってもらうぜ?」
「わぁ…」
その月夜に魅せられて
(私の寿命もとうとうここまでか、アーメン)
(一体いつから、これが自分だけの特権だと思い込んでいたのか)
散らばる髪に、指を通す。
2027.3.23
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