これ以上は命に関わるので勘弁していただけますか
◇
アパートの扉を開いたところで、雅はその気配に気づいて笑いかけた。
「ヴィアベルさん、こんばんは。いらっしゃっていたんですね」
「ああ、勝手に上がらせてもらったぜ。…今日は確か、飲み会があったんだったか」
薄暗い部屋の中、彼の顔がこちらに向くのに合わせて月明かりが鈍く髪色に反射した。
ただ座っているだけなのに、相変わらずひどく絵になる人物である。
問いかけに肯定を返しながら、マフラーを外す。
後ろ手に扉を閉めて電気をつけようとスイッチを探るが、同時に冷たい温度がその手を覆った。
「え?」
「外は寒かったか?だいぶ冷えてるな」
顔を挙げた瞬間に声が降ってきて、完全に前に立ち塞がっている姿に苦笑した。
瞬間移動が過ぎる。
そして何より体勢があまりいただけない。
ドアを背に片手の自由を奪われてしまっては、動きようがなかった。
「はい、結構寒くて…仰るとおり冷えてしまったので、できれば早く温まりたいんですが」
「だったらすぐに暖めてやるよ」
「それは、…っ、」
彼独特の好戦的な笑みを認識するなり、返事を返す間もなく距離が完全になくなる。
間もなく首筋に走った圧迫感と少しの痛みに、肩を竦めた。
多少の罪悪感はあるのか、それを宥めるようにもう片方の手が耳元をスルリと撫で上げる。
確かにこれで力は抜けるが、肩の力どころか全身の力が抜けてしまうため足腰さえ立たなくなった。
ずるずると座り込みそうになる身体はすかさず腰に回ってきた腕で支えられるが、辛い体勢には変わりない。
血を吸われたからか、見目麗しい異性に対しての緊張か、この行為に対する身体の反応なのか。
何が影響しているのかは分からないが、いつも通りドクリどくりと全身に血が巡り、一気に肌全体が熱を帯びた。
片手もいつの間にか解放されてはいるが全く力が入らないため、まだ電気はつけられそうにない。
「どうだ?もう寒くねぇだろ」
首から唇を離すなり至近距離で瞳を覗き込まれるが、今回ばかりは笑顔で受け入れることはできなかった。
確かに先ほどまでの寒気は消えたが、許可もなくいきなり吸血行為をされるのは初めてだ。
彼には珍しく余裕がないのかと、心配と諫めと半々の感情を込めて首を傾げて見せた。
「…、ヴィアベルさん今日は少し強引ですね。ちょっとご機嫌斜めですか?」
「へぇ…そう見えたか?帰ってきて早々に了解も得ずに悪かったな」
「全然心がこもっていません。気に入らないことがあったなら理由を言ってもらわないと、さすがに対応できませんよ」
「気に入らないこと、か」
考えるように黙り込んだヴィアベルに、まさか本当に機嫌がよくなかったのかと目を丸くする。
基本的に冷静で理性的な彼は、本人はあまり自覚がないかもしれないが完全に面倒見のいい兄貴肌タイプだ。
自分の感情どうこうで相手に影響を与えるようなことはないと思っていた。
意外な一面に逆に親近感を感じていると、やや視線を外して黙考していたヴィアベルがポツリと言葉を漏らす。
「…ー、今日は飲み会で色んなヤツと絡んだみたいだな」
「そりゃ飲み会ですし、みんなお酒が入ったりしていつもより距離感も近かったでしょうけど…」
それとこれと何の関係があるというのか。
しかし話の流れ的には彼の不機嫌の理由に直結しているはずだと、そこまで考えたところでハタリと止まる。
「…もしかしてヤキモチ妬いたんですか?」
深く考えるより先に音にしてしまい、次の瞬間には後悔した。
いくらなんでも、彼に限ってそれはないだろう。
出会って契約をしてから大分経つが、今まで拘束らしい言動もなければ人間関係に干渉されたこともない。
自惚れるにもほどがあると湧き上がってきた羞恥心を誤魔化すように、パタパタと手を振って取り消しにかかった。
「なんて、冗談…」
「そうかもな」
「…え?!」
言い切る前にまさかの肯定が被ってきて、情報処理が追いつかずにゆっくりと数回瞬く。
その姿が面白かったのか。
空気を抜くような笑いをひとつ零したのち、腰に回していた腕に力を込めて、未だに不安定だった雅の体勢の立て直しを補助した。
「そんな驚くことかよ。俺も自分の立ち位置くらいは心得てる。血を供給させてもらっている身だからな、アンタの生活に口を出すような権利もねぇ」
自嘲するようにその唇が歪むのを、ひたすら見つめることしかできない。
しっかり自分の足で立てたのを確認するなり離れた温度が、少しだけ名残惜しい。
そんな己の思考回路に気づいて戸惑いながらも、いつもより低く感じるその声に神経を注ぎ続けた。
「別に、男と一切関わるななんて無茶は言わねぇよ。ただー」
思わせぶりに言葉が途切れると、今まで以上に視線が濃密に絡む。
1度離れたはずの温度が、再び雅の顎先を捕らえたせいだ。
「っ!」
指先で顔を固定されて思わず息を呑む彼女に構わず、更にトーンを落としたヴィアベルが耳元に唇を寄せた。
「ー、…アンタに俺以外の匂いがつくのは、やっぱり気に入らねぇな」
吸血鬼は匂いに敏感なんだよ。
囁くような音が、甘さと痺れを纏わせて直接脳にたたき込まれていく。
これが吸血鬼の能力のひとつなのか、はたまたヴィアベルを想う自分に向けて作用する単なる彼の魅力なのかは判別できなかった。
ただ確実なのは、懲りもせず雅の足腰の力を奪ったことだ。
「〜っヴィアベルさん…!」
「おっと…。悪いな、少しばかりやり過ぎたか」
へたり込みそうになる細腰を難なく引き寄せると、睨み上げてくる双眼に向かってニヤリと唇の端を引き上げる。
いくら怒りを含もうと、潤んでいるせいで脅威にもならない。
「まあ、いくら匂いをつけてきても別に構わないぜ?」
「ああそうですか、じゃあお言葉に甘えて今度は2次会にも参加して、ーんむ?!」
せめてもの対抗心でわざと煽るようなことを言いかけるが、途中で物理的に遮られた。
顎先に添えられていたはずの手がそのまま肌を滑り、ひやりとした彼の手の甲がやんわりと唇に押しつけられる。
その温度差のせいで、やたら自分の吐息が熱く感じた。
後ろに壁、己に身も預けた状態で逃げようのない雅に対し、情けをかけるつもりもないらしい。
その向きのまま更に位置をずらした彼の人さし指が下唇をツゥと撫でた。
アンタがそのつもりならー、
限界まで雅の意識と動きを奪った上で、愉しげに前髪を揺らす。
「その度に、“上書き“すりゃいいだけの話だ」
「…すいませんこれからは善処します」
これ以上は命に関わるので勘弁していただけますか
(血うんぬんの前にまず顔と声のよさを自覚して、凶器だから)
(ちなみに残り香で相手まで特定できるが…今後も同じ匂いがつくようなら仕方ねぇ、対策錬るか)
いやよ、いやよも。
2024.3.16
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