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また溺れる、奥深く沈む。




「ただいまー」



 リビングのドアを開けてすぐ、雅は反射的に息を潜めた。
 ソファでうたた寝をしている旦那の傍によると、まじまじとその顔を見つめる。
 相変わらず反則的な睫毛の長さだ。

 お人形さんか。

 ブレずに昔からの突っ込みをしたのち、状況把握に努めた。
 彼は仕事の依頼の関係でここ三日ほど徹夜続きで、今日が締め切りと言っていたはずだ。
 テーブル上のコーヒーの湯気から、つい先程区切りがついて腰を落ち着けたところだったのだろう。
 寝室で休んだ方が身体のためだが、律儀な彼のことだから自分の帰りを待とうとわざわざ此処を選んでくれたに違いない。

 ほっこりしながら見つめていたが、不意に三ツ谷の身体が傾いたことで瞬間的に身体を滑り込ませた。



「っギリギリセーフ…!」



 肩に程よい重みがかかり、彼の髪が頬にかかる。
 隣にぴったり座ることでその身体を支えて安堵したのもつかの間。

 あ、これ身動きできないやつだ。

 帰ってすぐ手洗いうがいは済ませているため(三ツ谷の教育の賜物)大した問題はないが、さすがに着替えるべきだったか。
 スーツにシワを作れば、また彼の手を煩わせてしまう。
 仕方ねぇなあ。なんて笑ってアイロンがけをしてくれるのが常だが、今はとにかく休んで欲しい。
 いつもは甘えてしまっている夕飯作りも、折角自分が残業なしで帰ってこられたのだ。
 こんな時くらい進んでやりたい。

 そこまで考えてから、部屋に漂う匂いに気が付いた。



「…まさか、」



 直後に耳に入った炊飯器の炊き上がりメロディーで確信する。

 もう夕飯まで作ってくれてた…!

 あまりにできた主夫ぶりに膝から崩れ落ちたい気分だったが、生憎今は崩れ落ちる膝がない。
 本日もなんて隙のない旦那だろうと顔を覆って唸っていると、肩口から微かな振動と空気の揺れが伝わった。

 無意識的に見やれば、笑いを堪えるように瞼を押し上げる姿が映る。



「ー何がしてぇの?まあ大体考えてることは分かるけどな」



 お帰り。今日もお疲れ。

 挨拶のように当然のごとく掛けられる労りの言葉が胸に染みた。



「ただいま。隆君の凄さに腰が砕けちゃって」

「ふ…大げさ。そんな大したことしてねぇよ」

「いやいや、今日例の仕事終わったんだよね。最近ろくに寝れてなかったでしょ。なのに夕飯まで作ってくれてありがとう」

「毎日残業してる雅のがすげぇって。ん、そういや今日はちょっと早いか?」

「そう、久し振りに定時帰りだよ」

「よかったじゃん」



 身体支えてくれてありがとな。

 雅に荷重をかけないように慎重に起き上がると、軽く伸びをする。
 彼女をお風呂に送り出して夕飯の仕上げをするかとこれからの順取りに頭を回すが、続く視線にまた吹き出した。



「まだ何か考えてるだろ」

「え?あ、えっと…ほら、隆君って昔は妹ちゃんたちと部屋一緒に使ってて、よく2人が布団に入ってきてたってエピソードがあったよね」

「あーそんなこともあったな。つーか何で知ってんの、オレ話したっけ?」

「八戒君が楽しそうに喋ってくれた」

「…アイツはよくウチきてたもんな」



 それで?

 その話が何にどう繋がるというのか。
 相変わらずの脈絡の読めない振りに愉しげに聞き返せば、少し照れたようなはにかみが返ってくる。



「あの時は隆君の隣で寝られるルナちゃんマナちゃんが羨ましいなぁって思ってたけど、今は普通に寝顔が見られるようになったんだなって、」



 実感して幸せを噛みしめていました。



「…、」



 言いながら恥ずかしくなってきて、どんどん語尾が小さくなっていく。
 三ツ谷からの反応がないことに不安になった雅がちらりと視線を上げると、片手で口元を覆いつつも首を傾げていた。

 それは照れですか、疑問ですか。



「なんか複雑なリアクションだね?私的には甘酸っぱい気持ちを暴露したんだけどな」

「いやなんか家族感満載で話すから。オレからすれば、雅とルナマナは全然違ェけど」

「そうなの!?」

「何で驚くんだよ」

「えー…だって結婚した今は私だって家族なのに」

「ー分かりやすく説明してやろうか」



 言うなり、ゼロになる距離。



「ー!っ、」



 あまりに自然すぎて身動きすらとれない。

 いつの間にやらソファの端に追いやられている現状と、いつも通り柔らかく触れる唇への温度に訳が分からなくなる。
 瞬きすらできずにいると、一拍置いて視界が覆われた。
 少しカサつく指先が肌を掠める。

 片手で雅の両眼を隠した三ツ谷が、一旦空気を挟んで囁いた。



「ーだから、見すぎ。そんなに見られたら穴開いちまう」



 こんな時くらい目ェ閉じろって。

 困ったように笑う気配に、ああまた垂れ目を細めて眉を寄せて苦笑いをしているのだろうと。
 大好きな彼の表情を脳裏に描く。
 続けて再度唇を掠める温度に、手の中で瞼を降ろした。
 後頭部に回された手が、するりと髪を滑る。

 どこまでも優しい触れ方が、いつまでたっても変わらない感覚が、じわじわと身体中を満たしていく。
 脳が溶けてしまうのではないかというくらいフワフワしてきた辺りで、唇が空気に触れた。

 同時に拓いた視界。



「ー違い、分かったか?」

「っ、か…かしこまりました」



 数秒ぶりの対面。

 想像とは異なる艶っぽい視線に、何度も何度も頷いた。







また溺れる、奥深く沈む。

(まだ知らない表情があるなんて…圧倒的な心臓不足!)
(妹扱いなんて一回もした覚えねぇけど)

酸素をちょうだい。


2021/07/27


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