脳に浸透するのは君色
◇
ぼんやりと、漆黒の空を見上げた。
季節の変わり目の今、昼と夜の温度差が激しい。
『総北高校自転車競技部』の看板が掛けられたその前で腰を降ろして、半時間くらいになるだろうか。
−もうすぐ終わるかな。
ひんやりと澄んだ空気を感じながら、雅は両膝に顔を埋めた。
それから数十秒。
カラカラと何かを押す音が耳を掠めて、うなだれていた頭を起こす。
こちらを確認するなり、少し慌てたようにスピードを上げる人影。
自主訓練を終えた彼氏を認識して、雅は眩しそうに双眼を細めた。
「飴凪!いつから来てたんだ。大分待ったか?」
「…お疲れさま手嶋。いきなり来てごめん。まだそんなにたってないよ。おつかいついでだし」
「ったく、いくら近いからって無茶するなよ。身体冷えるぞ」
でた、第二のお母さん。
相変わらず面倒見がいいというか何というか。
思わず弛む口元を俯いて手で覆い隠していると、暗い視界に更に影が落ちた。
愛車をその場に停めた手嶋が、目の前まで近づいたらしい。
呆れたような溜め息が鼓膜を震わした。
「そんな薄着で外はダメだろ。もう暗いし、こっちとしては中で待っててくれた方が安心なんだけどな」
「ここの方が様子が分かると思って」
「んー、見守ってくれんのはありがたいんだけどさ。そんなとこ座ってたら冷えるだろ」
ほら。と差し出された手をとって、コンクリートから腰を上げる。
確かに、腰もお尻も完全に温度を奪われていた。
次からはピクニックシートでも持参するかと策を練っていると、
「…なぁ飴凪、」
静かな呼びかけが肌に浸透する。
視線をもち上げれば、真っ直ぐな瞳とかち合った。
「いつも悪いな、全然時間とれなくて」
「−大丈夫。こういう時間で十分」
「そうか」
少し眉を下げて笑う手嶋に、用意してきた水分とタオルを手渡す。
サンキュ、と心底嬉しそうに受け取ってくれる彼はやはり優しいのだろう。
自主練習をしている彼が、それらを自分で準備していない筈がないのに。
じーんと胸に広がる熱に浸っていると、部室の扉に手をかけた手嶋が、緩やかに振り返った。
「すぐ着替えて準備するわ。なるべく早く行くから、校内で待っててくれ」
部室の鍵の返却がある為、まだ校舎は開いているだろう。
最近の彼は夜の練習の常連だ。
仲良くなった当直のおじさんに話を通しているに違いない。
校内を指定したのは、外は冷え込むからとの配慮だろうが、少し思案した雅は控えめに首を振った。
「此処でいい。夜の学校不気味」
「ああ、怖いの苦手だっけか」
「…」
「じゃあ一緒に入る?気になるなら後ろ向いときゃいいし」
「…此処で待っとく」
「だよな。じゃあせめてこれ着とけ」
「うん?」
ずいと眼前に現れたモノを、反射的に受け取る。
見慣れた、学校名が入った長ジャージ。
出入り口付近の室内ベンチに置いてあったらしい。
「練習中は基本着ないからそんな汚れてないと思うけど、」
嫌ならやっぱ部室か校内な。
悪戯っぽく片目を閉じる姿には、適いそうにない。
「着る。ありがとう」
「ん。−あんま無理しないようにな」
主語は分からない。
ただ、フッと緩んだ口元とその台詞に、何かがぷつりと音をたてた。
今度こそとドアの向こうに進もうとする身体を、反射的に引き止める。
掴んだ彼の手が熱いのか己の温度が高いのか。
極端に異なる体温が混ざって、溶けた。
「…飴凪?」
「無理…しないでね」
「いきなりどうしたんだよ、お返しか?」
「ご飯食べてしっかり寝て、…チームのみんなにも頼って」
足下に視線を落としながら、ぽつりぽつりと言葉を落とす。
これでは地面との会話のようだ。
なんの脈絡もない切り出しだったが、少し間をおいて、ぽんと頭に温度が乗った。
「…はは、飴凪。なんか母親みたいだな」
「手嶋には適わないよ。既に私の第二のお母さんだから」
「そりゃ初耳だわ。じゃあお母さんは娘の体調管理しねーとな」
空気が笑うのと、手元のジャージが浚われるのはほぼ同時。
掴んでいた筈の彼の片手は雅の指先を離れ、あっという間に布に覆われた肩元と、瞬間的に引き寄せられる身体。
手嶋が雅に被せたジャージの両端を手繰り寄せているため直接体温が触れ合うことはないが、空気自体が熱を発しているような、そんな感覚に陥る。
彼が少し屈んでいるせいで、こめかみ辺りを掠める髪に意識を持っていかれた。
ち、近い…!
両想いを認識してからかなりたつが、中々恋人のようなスキンシップもとってこなかった二人だ。
いきなりの近距離に、雅が冷静を保てる筈もなかった。
「え、あ…手嶋?」
地面に貼り付けた視線も動かせずに、行き場のない両手がさ迷う。
結局、己の首元でジャージの前を縫い合わせてくれている手嶋の両手に行き着いた。
戸惑いがちに手を被せると、じわじわと掌に伝わる温度と、微かに揺れる指先。
汗のせいか少ししっとりした肌が、ジャージと雅の指先を握り込む。
「−お前にも、頼っていいんだよな?」
「っ…、当たり前」
バッと顔を挙げれば、至近距離で視線が絡んだ。
相変わらずの意志を感じる双眼に、思考がまとまらない。
目を奪われたまま動けずに、そのまま少しだけ彼の頭が傾くのを見送った。
コツンと額で音を聴いたのと、意外に長い睫毛を認識したのと、鼻腔に彼の匂いが届いたのは恐らく同時だ。
瞬きも忘れて魅入っていると、小さく空気が震えた。
「さすがにそんなにガン見されると照れるよ、飴凪」
触れ合っていた温度が離れて、肌と肌の間に入り込んだ空気に冷やされる。
いつものように困ったように眉を下げた手嶋が、ほんの数秒前と同じ距離で微笑んだ。
「…さっきので考えてること全部伝わったら楽だと思わない?」
「うん、テレパシー超欲しい」
脳に浸透するのは君色
(この気持ちを言葉にして伝えるのは、骨が折れるだろうから)
(ってか、このパニック具合も伝わって)
じんじん、ふたりのおでこ。
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