愛しの君の脱走
◇
雅は途方に暮れていた。
ジンジンと痛む右足に手を当てるが、気休めにもならない。
自分の体温が低いのか、捻ったそこが熱いのか。
心なしか指先との温度差を感じる踝に、そっと息と空気を織り交ぜた。
偶々だ。
花粉症で視界が悪くて、履き慣れないブーツで、躓いた幼子を支えた瞬間に浅い溝を見逃して、挫きかけたところにお急ぎのサラリーマンと接触し、変な体勢の足首に自分の体重をモロに掛けてしまった。
恐らくひとつずつであれば対処できたものが、これでもかというくらいのタイミングで重なった。
私は何かしましたでしょうか神様。
その場では気丈に振る舞って笑顔まで披露したが、数分後にはじわじわと這い上がってきた痛みに耐えられず座り込んでしまった。
石段に腰掛けた状態で、これからの行動について思案しながら己の膝小僧と睨めっこをしていると、不意に視界に影が落ちる。
「…、−?」
視線をあげる前に、鼻腔を掠めた香りに思考が弾けた。
続けて降ってきた声に、反射的に顔を隠すように背中を丸める。
「−大丈夫ですか?」
「!っ…あの、何でここに…」
今はバイト中では?
零れかけた音を、寸前で舌の奥に押し込んだ。
これではストーカー感丸出しだ。
最近行き着けとなった喫茶店の店員の唐突な出現に、ぐるぐると掻き混ざる頭の中を整頓すべく試みる。
事情を知る店長にこっそり頂戴したシフト表通りであれば、彼はこの時間帯は仕事真っ最中だった筈。
予定外の怪我に見舞われているが、本来ならそれに合わせて今日もお邪魔する予定だったのだから。
−ぶっちゃけた話、彼−安室透は雅の憧れの存在だ。
一目惚れに近い。
友人の用事に付き添い、その待ち時間に暇潰しに入った店。
二回目以降は彼目当てで足を運んでいたと言ってもよかった。
世間話をする程度には常連化していたし、そこそこ仲も近付いていたつもりでいたが、注文の際も彼の首元を見るのでいっぱいいっぱいだったのだ。
そんな自分の性格を熟知している雅にとって、この予期せぬ接触はダントツで本日一番のハプニング。
嬉しくないと言えば嘘になるが、それよりかは混乱が上回った。
そんな雅に追い打ちをかけるように、安室は彼女に合わせて膝を折る。
「今日はバイトだったんですけど私情で早めに切り上げる予定だったんです…シフトも変更済みで。帰り際に貴方の姿をお見かけしたので声を掛けようと追いかけてきたんですが、…」
ちょっと挨拶だけでは帰れそうにないですね。
雅の足下に視線を落とした安室の瞳がスッと細められる。
その台詞と表情に魅入っていた雅は、次の彼の行動に追いつけなかった。
「…失礼しますよ。暫く我慢して下さいね」
「え?」
不意に鼓膜を通した振動を音として理解するより早く、背中と膝下に温度が触れる。
ぶわ。
一瞬、…−否、事が起きてからも何が起きているのか理解しかねた。
不自然な浮遊感に、身体の各所への圧迫感。
何より、空気から伝わる男物の香水が何もかもを掻き乱す。
嗅覚情報は恋愛においてもかなりの重要度を占めるらしい。
いつかどこかでちらりと仕入れたようなデータが脳の端を掠ったが、今考えるべきはどう判断してもそこではない。
横抱きを、されている。
その事実に辿り着いたのは、歩く振動に揺られ、動く景色に褐色の首筋を認識してからだった。
「…っあ、ぇ!?あの…!」
「わ、動くと危ないですから…大人しくしていて下さい」
「いえいえいえいえ!おおお重いですからっ間に合ってますので、う…降ろし、」
「−大丈夫ですよ、僕も男です。女性ひとりくらいは運ぶ力ありますし…かなり派手に捻っているみたいなのでなるべく負担は減らさないと…」
パニックで最早何を口走っているのか分からない雅を宥めるように、ゆるりと微笑む。
しかし彼女にとっては破壊的な笑みがそんな近くにあれば、それは逆効果としか言いようがなかった。
警報のように鳴り響く脈打ちを耳の奥で聴きながら、せめてもの抵抗にと視界を閉じる。
言うまでもなく、そんなことをすれば視覚以外の感覚が結託してより敏感に働くことは目に見えていた。
実行して数秒後に気づくも、後の祭り。
ひとり悶絶し、とうとう意識が朦朧としてきた辺りで、ようやく終止符が打たれる。
風の切り方が変わり、臀部から大腿にかけての下半身に圧がかかった。
目的地についたらしい。
近場の公園に入ったらしく、その一角に据え置かれているベンチに降ろされたようだ。
「…はい、もういいですよ」
「…、はぁ」
安緒からか無意識に漏れた溜息を慌てて止めると、可笑しそうな笑い声をキャッチする。
「すいません、あれほど緊張されるとは思わなくて…」
怖かったですか?
思わず開いた先の苦笑に、全力で否定を返した。
もげそうな勢いで首を左右する雅を前に、安室は内心微笑む。
−今回の鉢合わせは、決して偶然ではなかった。
なんせ、某店長に“彼女に渡して下さい”とシフト表を託したのも、安室本人だったからだ。
彼女の怪我に居合わせたのも、店内から硝子を通して、奇遇にもその不幸続きのハプニングを見届けたから。
遠目から見ても派手に足を負傷したのは明らかだったのに、心配そうな周りを振り切ってそのまま歩き始めた姿に堪らず頭を抱える。
店長に無理を言って仕事を上がらせてもらった結果だった。
−彼女の記憶にあるかは定かではないが、雅とは過去に一度面識があった。
『−気分悪い、ですか…?』
いつだったか、諸事情にてしゃがみ込んでいたところに控えめに声を掛けてきた女性。
恐らく体調不良とみなされたのだろう。
その場ではそこから動くことが叶わなかった上、顔を覚えられても面倒だと、沈黙を守ることにした。
サングラスにニット帽を深く被った容貌であった為、顔さえ伏せていれば問題なかった。
気遣いの問い掛けに対し何の反応も示さないその態度は、人によってはマイナスにとるだろう。
しかしながら今回声を掛けてきた人物はお人好しの部類だったらしい。
完全に具合が悪いと見なしたのか目に見えてオロオロし始めた。
『ね、熱とか吐き気とかあります?カイロならありますけど寒かったりとか…、あ、近くに薬局あるので薬と水でも買ってきます…!』
思考回路がパンク寸前であるのが手に取るように分かる困惑度を示しながら挙動不審な動きをとっていた彼女だったが、最終的には薬局に向かうことにしたようだった。
チラリと心配そうに睫毛を震わせながら、背を向ける。
安室からすれば現状で第三者は不要であり、此処から離れてくれた方が有り難い。
特に何も考えず、一刻も早くどこかに消えてほしいとその翻る黒髪を見つめていたが、間もなく再会した視線に眉をひそめた。
まだ何かあるのだろうか。
いつ何が起こるかも分からない。
少々の焦りと苛立ちが胸の中で疼き始めた瞬間、安室の眼前に茶色が突きつけられた。
正確には、革製のブックカバーが視界を占めた。
意図が読めず、思わず先程までの感情も一切振り切ってコレを差し出しているだろう彼女の方を見やる。
それに応えるように、その唇からソプラノが飛び出した。
『待ってる間お暇でしょうからよければどうぞ!』
推理小説です。
正直、補足は頭に入らなかった。
彼女は、自分を体調不良者と認識している筈だ。
しかも、頷きも返せないほど重症の。
そんな相手に、読書をする余裕があると思っているのか。
噛み合わないちぐはぐな言動。
奇抜な行動に、現状も忘れて唖然とした。
安室が固まっている内に、今度こそ薬局へ向かったらしい。
いつの間にやら世界から消えた漆黒。
遠ざかる足音をぼんやり聞き流しながら、強く瞬く。
手元に残された文庫本を眺めていると、じわじわと遅れた感情がこみ上げてきた。
『…−、』
今が仕事中であることを思い出して寸前で押し留めるも、行き場のない笑いは結局心中を満たす。
ただの行き過ぎたパニックなのか。
はたまた薬などは口実で、己に対する他の企みがあるのか。
−どちらにしても、中々面白い。
暫くは彼女の消えた方向に視線を投げていたが、“事”が動いたことを察すると、再び焦点を戻した。
ほくそ笑んだ安室は、革に微かに残る温度を指先でなぞると上着の内ポケットに仕舞い込み、緩やかに腰を上げる。
地理の把握具合や軽装だったことから、ここら辺の人間であることは察しがついた。
範囲が決まっていれば探し出すのは容易い。
そして彼女との再会は、思いの外早かった。
バイト先の客として姿を現した彼女を見た時は、“運命”なんて柄にもない言葉が頭を過ぎった。
接する機会は少なくはなく、コミュニケーションもとれるが、関われば関わるほどに謎は深まった。
自意識過剰というわけではないが、彼女の興味が自分に注がれているのは感じる。
ただ、あの時と同様に、それがどういう目的であるのかが探りあぐねた。
接点を求める割には、視線が絡まないのも気になる。
瞳を反らすのは、心理を悟らせない為なのか。
自分が持ったままである小説を話題に挙げてこないところをみると、同一人物として認識してくれているのかも怪しい。
敢えて無関心を装っている可能性もあるが、真意を探ろうにも、中々テリトリーに踏み込ませてもらえない。
その交友さに反して距離を縮めてこない彼女に、歯がゆささえ感じた。
−安室はハンドルを握りながら、思考に耽っていた意識を呼び戻した。
車で送るからと言いくるめ、車を彼女を待たせている公園の傍に停めるが、そこでふと首を傾げる。
ベンチから消えている人影に慌てて園内に駆け寄るも、やはりどこを見渡しても彼女の姿はなかった。
「−…おっと、逃げられてしまいましたか…」
離れていたのはほんの数分だったが、手当を完璧に済ませてしまったせいで、動くスキルを与えてしまったらしい。
痛くないと感動していた姿を思い出して、苦笑を零す。
先に車に乗せてしまうべきだったか。
そんな後悔をはらませながらベンチへと近づくと、ブラウンの中に異質な白が浮かんでいた。
彼女と入れ替わりに居座るリング式のメモ帳は、いちページを示して佇んでいる。
『すいません、私も急用が出来たのでそちらに向かいます。お忙しい中、手当てありがとうございました。とても助かりました。また改めてお礼に伺います』
癖のない読みやすい字がところどころブレており、いつかの慌ただしく焦る彼女が容易に脳内に甦った。
何にせよ、彼女の自分への挑戦はまだまだ続くらしい。
「…次回はドライブくらい覚悟してもらわないといけませんね」
どこか楽しげに呟かれた音は空気に溶けた。
愛しの君の脱走
(無理無理無理っ、心臓が持ちません…!)
(次は逃がしませんよ?)
だっしゅ、奪取、ダッシュ。
2013.03.05
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