成程ボクは自分が思っていたよりあの子を愛していたらしい
◇
少し冷たくなってきた風が肌を撫でてすり抜けた。
もうそろそろ屋上での昼食は終わりにするべきだろうか。
空気の温度とは対照的に清々しいほど青い空を睨みつけた。
「−グレイ」
不意に鼓膜を刺激した柔らかな音に、箸も止めずに視線だけそちらに流す。
「…なに?今食べてる最中なんだけど」
禍々しそうに片目を細めてみせれば、申し訳なさそうな笑みが返ってきた。
そのまま唇を閉じたところをみると、自分が食べ終わるまで話は待ってくれるらしい。
彼女のこういう聡いところは非常に気に入っているが、何だか今日はやけにムシャクシャする。
ため息をひとつ大袈裟に吐き出すと、彼女お手製の弁当をつつく箸を一旦停止させた。
華奢な見た目に反してブラックホールでも収納しているかというほどの食性をみせるグレイに合わせた、莫大な量の弁当。
これを毎日飽きもせず丁寧に作ってくる隣の少女は、彼にとっては大切な食糧源だ。
勿論食材費はグレイがもっているものの、これらを調理する器量の良さを考えれば、彼女の右にでる者はいないわけで。
「話しなよ」
短く促せば、にこりと口元を緩く崩して手を伸ばしてくる。
あっという間に頬に触れた温度と、ご飯粒を攫った指先。
考えるより先に身体が動いた。
ガシャンッ。
彼女の手首を押さえつけた衝撃で震えたフェンスが鳴く。
支えを失った弁当が重力に従順に引き寄せられ、冷たいコンクリート上に無惨に具材を散らばせた。
しかしそれでも変わらず笑みを称える瞳に軽く舌打ちして、掴む手首に力を込める。
「ボクは話をしろって言ったんだけど。喧嘩売ってるワケ?」
「ごめんね、そういうつもりじゃなかったんだけど」
「完全に子ども扱いじゃん。次やったら何するか分かんないから気を付けてよ」
「うん」
グレイは自分の性格もある程度は自覚していた。
興味ないものには目も向けないし、気に入らないものは徹底的に排除する。
彼女の代わりはいないのだ。
下手に怪我をさせるわけにはいかないと念を押すが、相変わらずの穏やかな表情を見ていると本当に理解しているのか不安になる。
疑いの眼差しを残しながらも、ま、いっか。と束縛を解いた。
それから何事もなかったかのように元の位置へと腰を落ち着けたグレイは、中身をぶちまけた弁当の残骸に少し顔をしかめるも、速攻で切り換えて次の箱へと手をかける。
蓋を開けるなり鮮やかな色彩が視界に飛び込んだ。
こちらも栄養バランスまで申し分なさそうだ。
適当にタコの形をしたウインナーを選んで口内に放り込むと、香ばしさが広がった。
味覚への刺激に満足げに口角を引き上げて、次は黄色い卵焼きに狙いを定める。
「で、何だっけ。話?」
ツヤツヤと自身を主張する卵焼きを箸でヒョイと摘むと、機嫌よく視線を横に投げた。
投げて、そこで世界が止まる。
「…−うん。ちょっと、大事な話」
あまりに綺麗に微笑む彼女に、彼女を除く全ての色が奪われた。
いつもの柔らかい笑みではなくて、能天気さもなくて、ただ綺麗なだけ。
どこかおっとりとした彼女からはかけ離れた、造られたような美しさに掻き回されて、柄にもなく固まる。
ぼんやりと感じ取ったのは、“最後”。
はっきりとした決意を宿したその瞳は、今の日常の終わりを鮮明に孕んでいた。
どこか現実離れした雰囲気の中を、ぽつりポツリと音が漂う。
「…海外にね、引っ越すことになったから」
親の都合で。
「だから、弁当はもう作れないの」
ごめん、ね。
完璧な笑顔で泣きそうに笑う姿が憎くて、憎らしくてしょうがない。
緩い風に舞い上がる自身の銀髪の色も戻らないまま、ふうん、と視線を外した。
「いつから?」
「明日出発なの」
「は?言うの遅すぎるんじゃない?」
「かも。中々言い出せなくて」
「あっそ」
どうでもよさそうに呟いて、放置したままだった卵焼きを唇の裏側に押し込む。
ほんのり甘いはずのそれは味気なく、無意識に端麗な眉をひそめた。
「でも明日の分は作れるから…、」
「−いらない」
只でさえ空気に溶け込んでしまいそうなソプラノを迷いもなく断ち切る。
そっか。
少し眉を下げて困ったように笑む彼女は、気付いてなどいないだろう。
−彼女が先日倒れた際に病院まで運んだのがこの自分だ、なんて。
心臓に関わる難病を抱えていることを、知ってしまったこと、など。
彼女は無知のまま、愚かにもそんな嘘で自分を騙せると思っているのか。
グサリ。
苛立たしさに忠実に、目に入ったミートボールを箸で貫く。
例えば自分を頼ってくれたなら、手間を惜しむことはなかっただろう。
金ならばいくらでも出すし、どんな手を使ってでも、あらゆる手段を模索して彼女を助けるために動いただろう。
貴重な食糧源を何故こんなところで失わなければならないのか。
ただ一言、助けて欲しいと言ってくれれば…ー。
しかしグレイも伊達に少女を見てきたわけではなく、確かな確信を抱いていた。
彼女が他人に、自分に助けを乞うことは、ありえない。
きっと涙も見せずに、ただ弧を描いた唇で別れの言葉を口にするだけ。
真実を伏せたまま、手の届かないところに消えるのだろう。
「…一応聞くけど、」
最後の希望に縋りたくて。
この話題が続くことが意外だったのか、大きな黒眼が瞬くのを視界の端に捉えた。
「帰ってくる予定は?」
一瞬の、間。
視なくても解る。
彼女はきっと、笑っている。
「ないよ」
濁りのない澄み渡った音に、一層のことこの手でその心臓を停めてしまおうかとまで思った。
嫌いだよ、大嫌いだ。
その目も、鼻も、口も、肌も、手も、足も、指も、笑顔も。
「−じゃあ君もいよいよ用なしってわけだ」
晴れ晴れと吐き出した言葉に込めた感情など、君が知る日はこないのだろう。
「うん、そうだね」
ふわふわと頬を緩めた彼女は僅かに、ほんの微かに寂しげに瞳を細めてから腰を上げた。
もうすぐ予鈴の鳴る時間だ。
真面目な彼女はきっとこんな時でも授業をサボることはない。
最後くらい流せるのではないかと、試しにサボリに誘ってみようかという考えも過ぎったが、どうにも成功するイメージが湧かずに止めた。
これ以上一緒にいて無事に彼女を帰せる自信もない。
考えるのも馬鹿らしいと宛もなく嘲笑を零す。
モノクロの世界で、最後まで嫌いだと言い切れなかった艶やかな黒髪が緩やかに揺れるのを見つめた。
成程ボクは自分が思っていたよりあの子を愛していたらしい
(勝手にいなくなるだなんていい度胸だよね、明日から一体誰がボクの弁当作るのさ)
(あなたに会うまでは受け入れていた人生だったのに、どうにも心残りができてしまったようで)
ギィギィ、錆びた扉に消える。
(お題配布元:伽藍様)
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