その涙に恋をした
◇
佳主馬は自室の扉を開けるなり、呆れたように肩を落とした。
軽く息を吐いて後ろ手に扉を閉め、部屋に入る。
いつもの定位置であるパソコンの前に座り込むと、その壁際でぺたりと座り込む幼なじみに顔を向けながら電源に手をのばした。
「毎度のことだけどさ、来るなら連絡入れなよ。何も用意してないんだけど」
「ごめんね、でも佳主馬に会いにきたんだから本人さえいれば何も要らないよ」
「…あのさ、雅」
「ん?」
「……何でもない」
にこりと笑って首を傾げる雅に、溜め息と共に言葉を呑み込む。
彼女が特に考えもなくそんな言葉を口にするのは知っているため、いつものことだとそこには特に触れない事にする。
せめて自分以外の男に言っていないことを願いつつ、母が気を遣って置いていったのであろう麦茶を氷の積むコップに注いだ。
カラン。
涼やかな音をたてるそれを嬉しそうに受け取る姿を見届けてから、自分も口をつける。
「で、…今日は何で泣いてんの」
まるで日課であるかのようにサラリと口にした佳主馬の言葉通り、雅の瞳は充分に潤っていた。
服の変色した規模と頬に残る跡から推測するに、随分前からこの状態だったのだろう。
未だにボロボロと溢れ続けるそれを拭おうともせず、彼女はコップをぎゅうと握り締める。
微かに睫毛を伏せると、身を乗り出すようにして佳主馬との距離を詰めた。
「っそうなの聞いて佳主馬…!」
「うわ!?ちょ、近ッ…分かったから落ち着きなって!」
いきなりの至近距離に反射的に身を退いた佳主馬は、目のやり場に困ったように微妙に視線を外して身じろぎする。
天然でやっているから尚、質が悪い。
大体、躊躇なく部屋に上がり込んでいる時点で男として意識されていない気がする。
自分の思考に少しムッとしながら、何とか元の体勢に落ち着けた雅の切り出しを待った。
普通の女の子がここまで泣きはらしていれば男として焦るべきところかもしれないが、生憎、自分の幼なじみは普通ではない。
“今日”の原因を突き止めるべくじっとしている佳主馬の前に、それは姿を現した。
「−っとうとうこの二人がくっついたんだよ!?」
「…やっぱりか」
バッと目の前に突き付けられたのは、彼女が最近ハマっていたという少女漫画。
どや顔で見せつけられたのはヒロインが男の子に抱きしめられているシーンであり、ストーリーが分からない佳主馬にも、想いが通じ合ったシーンであることは理解できる。
ただ、それが涙を誘うほどの感動場面であるかと問われれば、答えは否だ。
しかしそんな佳主馬をよそに、雅はこれ以上ないくらいの名シーンを見たかのような表情でそのストーリーを並べ立て始めた。
「実はこの二人はずっと両想いだったのにすれ違いとかライバルの企みとかで中々想いが通じ合わなくてねっ…」
「まあ王道だね」
「だってそれぞれにライバルがいるんだから!しかも女の子のライバルが凄く頭よくて、色々細工したんだよっ」
「よくある話じゃん」
「でも男の子のライバルがヒロインの辛そうな姿に耐えられなくなって葛藤しながらも手助けするんだって!」
「ふーん」
「ハラハラしたけど誤解がとけてよかった〜」
「…雅、ティッシュ使っていいから」
拳片手に熱弁する雅に、手探りで探り当てたティッシュを差し出す。
話すことで興奮がぶり返したらしい。
再び急速に睫毛を濡らす雫にそっと息を吐きながら、お礼と共にティッシュを攫う彼女を見つめた。
感受性が高いのか感動屋な雅は昔から涙腺が緩く、佳主馬が見てきた限りで彼女が泣かなかった日というものは記憶にない。
もしかすると体中の水分を涙に費やしているのではないだろうか。
水分を与えておかないと何となく心配だと、既に空になったコップに麦茶を付け足してやった。
「ありがと」
「ん、」
あとはまた氷でも準備して目を冷やさせないと…。
長い付き合いで既に身に付いてしまった日課に思考を巡らせていると、パラパラと紙同士が擦れる音が鼓膜を撫でる。
起動したパソコン画面に向けていた視線を雅に戻せば、案の定、手に持っていた漫画をめくっていた。
まだ話し足りないのだろうか。
ティッシュの手助けでやっとひいた涙が再び溢れ出す可能性、大だ。
「…それ以上泣くと流石に明日大変だと思うけど、」
「ん〜、あ、これこれ」
「ちょっと、聞いてんの?」
漫画に一直線の視線に軽く眉を顰めるが、当の本人はウキウキとある一ページをなぞる。
間もなく、夢見心地な表情を乗せた雅はうっとりと頬に手を当てた。
「ヒロインが泣いちゃうシーンで男の子のライバルが慰めるとこがあるんだけどね、『泣くなよ、お前には笑っててほしい』って涙拭うんだよ!」
「クサい台詞」
「えー、いいと思うけどなあ…。女の子はきっとこういうのに憧れるって」
「…、雅はそういう奴がいいの?」
「んーっと、そうだね!ドキッとはするかな」
ニヘリと表情を緩める雅に対し、佳主馬は面白くなさそうに顔を反らす。
「…無理」
「えぇ!?何が?!」
「雅みたいにほいほい泣く奴に泣くななんて無理に決まってるだろ。寧ろ泣きたい時に泣かせてやるってくらいの男じゃないと務まんない」
頭がよく回らない。
思考を停止させたまま、佳主馬はひたすら言葉を並び立てた。
自分が何を言っているのかも曖昧なまま、ワケの解らぬ動悸に唇を固く結ぶ。
意味もなく手の中のコップに視点を定めると、小さくなった氷がカラリと音をたてて崩れた。
ガラスに触れる温度がやたら冷たく感じるのは、自分の体温があがっているのか。
―不意に、敏感になった五感が空気の振動をとらえた。
軽やかなソプラノに顔を挙げれば、楽しそうに揺れる色素の薄い髪が視界に飛び込む。
「じゃあ…−佳主馬が一番近いね」
「っ…!は!?」
にこ。
いつのまにか接近していた雅に笑顔で顔をのぞき込まれ、思わず仰け反った。
先ほど以上に真っ白になる脳内。
彼女の言葉を理解する頃には、次の情報が聴覚を伝って脳に流れ込む。
「だってどんな話もいつも黙って聞いてくれるし、わたしが泣けるのって基本的に佳主馬が近くにいる時だけなんだけどなー」
「…!」
気付いてた?
悪戯っぽく八重歯を覗かせると、後ろのパソコンデスクにぶつかりそうな佳主馬の手を握って引き寄せた。
額が触れそうな距離で、視線が絡む。
呼吸さえ忘れるその中で、雅がゆったりと睫毛を上下させた。
「ね、佳主馬」
ふわり。
雅の微笑みに合わせて、真っ黒な瞳からお馴染みの水がこぼれ落ちる。
−だったら、さ。
「泣かせてくれて、笑わせてもくれる人なんて最強だよね」
弾む声と頬を伝う透明さに、泣きそうになるのを堪えた。
その涙に恋をした
(多分、出会ったあの瞬間から)
(傍にいるだけで目元が熱くなるほど好きなのは貴方だけですが、何か問題でも?)
ぽたりぱたぱた、伝染涙。
(お題配布元:伽藍様)
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