指折り数える、君との
◇
ぱたぱた。
紫陽花から水の玉がいくつも落ちる。
薄暗い視界の中、人通りのない公園の入口で夏目は足を止めた。
クルクルと回る白い傘。
いつもの時間、いつもの場所でちらつく白いワンピース。
ベンチに座って足をぶらぶらさせる姿に、子供みたいだと思わず笑みを零した。
傘を片手に歩み寄ると俯いていた彼女の顔が挙がり、白い歯が覗く。
「やあ少年、今日も麗しいね」
「夏目です」
「私は名前は覚えない。名前など意味はないよ」
「…だから自分の名前も要らない、と?」
ぎゅ。
友人帳を入れた鞄を微かに握り締めると、全てを見透かすような視線も口元に合わせて笑いを含んだ。
「そうだ、だから何度来ても同じ。その名を私に返す必要はない」
その友人帳を持っているのが少年である限りはね。
夏目の傍らに位置する猫を視界に捉えてニシシと瞳を細めた少女は、自分の隣を叩いて座ることを促した。
ベンチは雨に晒されているにも関わらず殆ど濡れていない。
「いやあいい雨だね」
くるくる、クルクル。
楽しげに回る彼女の傘から水滴が散り、隣に座った夏目と猫の方へと踊った。
慣れたもので、夏目は特に気にした素振りもなく、苦笑を携えて頬を伝う雫を拭い去る。
対して招き猫の姿を借りた斑は仕返しとばかりにブルブルと身体を震わした。
「ジメジメしていて私は好かんがな」
「おや、雨のありがたみを分かっていないな招き猫」
「誰が招き猫だこんな花食ってやるー!」
「ちょ、先生ー!大人げないぞっ」
「放せ夏目!」
近くの紫陽花にかぶり付こうとする猫に、それを後ろから抱え込んで止める少年。
何ともシュールな光景に、ふわふわした少女は可笑しそうに声を上げた。
「あっはっは!相変わらず飽きないコンビだこと。少年も中々に物好きだね」
その豪快な笑いに、夏目は眩しそうに前髪を揺らす。
隣の彼女は妖と言われる類のモノで、何よりも儚げな雰囲気を纏っていた。
青白い肌に、白を基調とした服装。
それに映える紫陽花色の髪。
その容姿もさながら、どこか掴めない表情たちもそれらを助長しているのだろう。
また、印象的なのはそんな外見や空気に反する言動だった。
柔らかな顔立ちに乗るのは決まって悪戯っぽい笑みで、綿のような声で紡がれる笑い声はどこまでも高らかだ。
誰よりも慎ましそうな姿で、そこらの子供よりも活発に動き、しかし喋りは酷く古風。
そんな矛盾だらけの彼女に惹かれたのは必然か。
するり。
ぼぅっと思考に浸る夏目の腕から抜け出た斑はぽてりと着地をかますと、ふてぶてしく振り返った。
「物好きはお前の方だろうが低級妖め!話にならんわ、私は先に帰るぞ夏目」
「なんだ先生、帰っちゃうのか」
「せいぜい喰われんように気を付けろよ」
「失礼な。私が少年を喰うわけがなかろうに」
「さあな。お前のような妖ほど何を考えているのか分からん」
プンプンと比喩の煙を撒き散らしながら去る丸い後ろ姿を、夏目は微笑ましい眼差しで見送る。
本気で危険を感じている妖を前に、斑が夏目からむざむざ離れるわけがない。
まだ出会って間もないが、斑のその行動が示す信頼に気が付いているのか。
先程よりも回転数が上がった隣の傘に少し笑った。
−…喜んでる。
何気なく空を見上げると、モノクロの景色と仕切りに動く線の模様、灰色の空が、傘の隙間から覗いた。
ふと思考を巡らせて、再び落ちる視線。
梅雨は、もうすぐあける。
「…やっぱりこの季節にしか出てこれないのか?」
夏目の言葉に対し、紫陽花に身を寄せる彼女の傘は止まることなく。
また少しだけスピードを落として、くるくる。
クルクル。
どこを見るでもなく真っ直ぐ前を捉える瞳は、ゆったりと睫毛を上下させた。
「−所詮、低級妖。今の私の力ではこの姿を保つだけで精一杯なのだよ。少年に顔を見せれるのも…多分、今日が最後だ」
穏やかな弧を描く唇は、静かに、しかし残酷なまでにはっきりとその告白を呟く。
彼女のこんな笑い方を見るのは、きっとこんな時だけだ。
そんな根拠のない確信を持ちながら目を奪われていると、次の瞬間にはいつもの子供じみた笑顔が視界いっぱいに広がった。
「なに、いつか再びこの地に訪れる。その時はまた会いに来てくれるかな?」
“いつか”。
その曖昧さが、夏目の不安に火を灯す。
人間と妖の寿命の差を考慮しての気遣いだということは考えるに容易い。
「…俺でよければ、よろこんで」
先程の儚さはまるで幻のように。
白をちらつかせながら嬉しそうに瞼を落とした彼女は、次の瞬間には睫毛を上げて夏目に顔を急接近させる。
いきなり縮んだ距離に、その薄紫色の硝子玉に映る自分が吃驚顔で軽く仰け反った。
しかしそれを許さないとでもいうように白い指先が後頭部を捉え、引き寄せる。
いつの間にか動きを止めた傘。
視界を過ぎる紫陽花色。
聴覚が働かない、音のない世界。
額に触れた冷たい温度に、時が止まった。
「−!」
それが彼女からの口づけだと気付いたのは、再びその柔らかそうな髪がふわりと弧を描いてからだった。
ひんやりと掠めた体温が離れると同時に雨の音が、
―世界が、戻ってくる。
「〜っな、にを…」
反射的に額を掌で覆うが、急速に集まった熱は拡散させるのに時間が必要だった。
大きな動揺で、傘を持つ手から意識が逸れる。
グラリと揺れた傘の取っ手を彼女の手が見事にキャッチし、頬に朱を差した夏目に目をクリクリっとさせたのち、それを持ち直させた。
濡れるぞ。
ふっふっふ、とどこか高揚感に溢れた笑みで迫る少女に、礼を述べながらも本能的に後退した。
「少年でもそんな反応をするんだな」
「…からかうのはやめてくれ。生憎、こういうのには慣れてないんだ」
「?人間のコミュニケーションのひとつだろう。違うのか」
「いや、そう言われると…間違ってはいないんだけど」
「よくそこで母親が子にしているのを見る。だから私はこれが“愛情”とやらの表現だと解釈した」
「…そう、か」
そこ、と砂場を指す彼女に、複雑な想いが募る。
昔は、よく独りでそんな親子のやり取りを見つめていた。
感傷に浸る夏目に何を思ったのか、少女はひょいとその顔を覗き込む。
「なんだ、浮かない顔だな。違う箇所のが良かったか?次は考慮しよう」
「いや、そういう問題じゃなくて、…−ってまたするつもりなのか!?」
「当然。正直なところ愛情だのなんだのという気持ちは理解し難いが、少年のことは嫌いではないよ」
「っ…、」
きらきらと雫の光を反射する瞳から視線を外すことができなくて、勿体無い気がして。
同時に、滑らかに鼓膜を刺激したその言葉に何かがジーンと胸を占める。
どこか照れ臭くて、しかし心の臓が脈打つ確かな温もり。
ありがとう、と呟くが、あまりに空気に溶け込みすぎて相手に伝わったか分からなかった。
ただ、手に重ねられた白い温度が彼女の精一杯の意志表示であることは解る。
−ああ、不器用なのはお互い様か。
妖も、人間も。
気持ちを相手に伝えることに躍起にやって、試行錯誤して。
だからこそ、些細な一言でもこんなにも愛おしい。
薄くなっていく隣の気配に、視覚を遮断した。
消えゆく彼女に対して、自分がどんな顔をしてしまうのか。
それが怖くて俯く。
ああ、彼女は、笑っているのだろうか。
「−少年、」
珍しい、声の性質に反しない柔らかな響きが、脳に直接入り込むように語りかける。
それでも夏目はただただ耳を澄ますばかりだった。
動けない、
顔が挙げられない、
目が開けられない。
お別れすらまともにできないなんて、自分はこんなに弱かっただろうかと傘を握る指先に力を込める。
昔は、親戚内を盥回しにされていた時代は、多分それほど別れを惜しんだことはなかった。
それこそ数え切れないほどの機会があったし、それが当たり前だった。
しかし、今はいつの間にかかけがえのないものが増えすぎていて、もはや手放せないものばかりだ。
彼女も、今の自分にとって確実にそのひとつにカウントされている。
「…ごめん」
「何故謝る?」
「うまく、言葉が見つからないんだ。…何を言ったらいいのか、分からない」
冷たくなった唇で細く空気を震わせると、ひとつ空白を置いてささやかな振動が返された。
肩を揺らして愉しげに微笑む姿が、さも当たり前のように真っ暗な瞼の裏に焼き付く。
「私にとっての名前と同じ。言葉など不要だ」
その言葉が風に乗って吹き抜けた瞬間、頬に感じた“何か”と鼻腔をくすぶる微かな香。
もう実体も保てないのだろう。
「!」
その事実と成された行為の正体に気付き、感情に渇を入れて無理矢理瞼を押し上げた。
「−やっとこちらを見たな」
淡い光。
色眩しい紫陽花を透かす、無邪気な笑みが認識される。
とても直視出来る心境ではなくて、彼女の片手で器用に折り畳まれる白い傘に焦点を移した。
「…もしかして会うたびにするつもりか?」
「ほう、額だけでなく頬もだめなのか。見かけによらず我が儘だな」
「質問の答えになってないぞ」
少し拗ねたような夏目の視線に、心底晴れやかに笑みを投げかける。
「“必ず”また来る。再会を果たそう、
…−『夏目』」
「!」
意志のこもる変化。
不意打ちで耳をなぞった声の形に、目を見張った。
「っ…、−!」
無意識に唇を開くが、音にならない。
否、出せる形が見つからない。
名前を呼べないもどかしさにぎゅっと指先を握る。
「っ次…、次に会った時には名前、受け取ってもらうからな!」
−ふわり。
柔らかい風が頬を撫で、軽やかな笑い声が空気と同化した。
傘を持つ手を下げると、灰色の雲から数本の光柱がやんわりと世界を照らす。
一人分のスペースを空けたベンチ。
雫が輝く紫陽花に、そっと口元を緩めた。
指折り数える、君との
(誰かの名前を知りたいと思ったのなんて、いつぶりだろう)
(名前を呼ばれたいと思ったのは初めてだよ、少年)
晴れた空、ココロハレルヤ。
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