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僕は君を忘れてしまったことを忘れられなかった




ーああ、頭が痛いなあ。


 雅が布団に包まりながら歪む天井をぼんやり見上げていると、引き戸が音を立てた。
 反射的に追った視線の先に、これまたぼんやりした両目が見える。
 これは恐らく、熱のせいではなく彼本来の姿だろう。

 大好きな長髪が揺れるのを、床に伏せたまま大人しく眺めた。



「飴凪さん、本当に身体弱いね」

「…面目ないね、時透くん」



 静かに横に正座した時透に、雅は弱ったような苦笑いを浮かべた。

 彼は、記憶障害を持っている。
 辛すぎる経験のせいで、昔の記憶もなければ、身近な出来事もすぐに忘れてしまう。
 それでも、体調を崩す度に様子を見に来てくれる程度の位置づけには、なってきたらしい。

 ふわふわした頭でふにゃりと口元を緩めると、不思議そうに間をあけた時透がやや残念そうな視線を向けてきた。



「…今回は大分熱高いの?」

「いや、熱でおかしくとかなってないから」

「そう」

「時透くんはヒマなの?」

「柱がヒマなわけないよ。何でか最近あちこちがうるさい。此処が一番静かだと思って」



 淡々と無表情に語る言葉に、思考を巡らせる。

 ああ、確か新しい子が何人か入ったんだっけ。
 彼にとってはそれは既に曖昧な事項で、それすら気にもならないのだろう。

 早く思い出して、戻って欲しい。
 昔の、“無一郎くん“に。

 柱である彼は常に忙しい。
 話す機会があるのは、こうして自分が高熱でも出して動けなくなった時くらいだ。
 この機会に話したいことは忘れてしまうほどに沢山あるのに、身体が言うことをきかない。

 徐々に重たくなる瞼、沈む意識に、彼に向かって手をのばした。





「…飴凪さん。寝たの?」



 手をのばしてきたと思ったら、意図を探っているうちにその手は重力に従ってぱたりと地に落ちた。

 問いかけるが、その両眼はこちらを映さない。
 唇も何も紡がない。
 どことなく何かが詰まったような、絞められるような息苦しさに、深く息を吐き出した。



『っ無一郎くん…!』



 彼女が、雅が、一度だけ自分の名前を呼んだことがあった。
 重体で目を覚ましてすぐ、泣きそうな顔で駆け寄ってきたその少女を、自分は何も感じずに見つめたのだ。

 恐らくひどく聡い部類であろう彼女は、一瞬だけ目を見開いて、すぐにくしゃりと笑った。



『…ー初めまして、時透くん』



 それから、普段の雅が自分の名前を呼ぶことはなくなった。
 興味のないことはすぐ忘れてしまうことは雅も知るところだから、きっと彼女もあの出会いは忘れていると思っているだろう。
 しかし、それからも何故か雅に関することだけは、忘れなかった。

 あの総ての悲しみと寂しさをごちゃ混ぜにして押し込めたような、涙で歪んだ笑顔が今でも脳裏にこびりついて、主張する。
 彼女は、きっと知り合いだったのだ。
 ぽっかり穴の空いたような心地悪さが、彼女を見る度に埋まったりうずいたりする。

 早く思い出したいのに、何かがそれを妨げる。
 そんなに大切な存在だったのならば、何故忘れてしまったのだろう。
 何に対してどんな感情を向ければ良いのかさえ分からずに、他人から始まった彼女との時間を刻む。

 こうして雅が倒れる度に訪ねるのも、決して彼女のためではなかった。



「…無一郎くん、そこに、いる?」

「…、うん。いるよ」



 ぴくりと動く細い指先を、只見つめる。

 雅は、こうして夢と現実の狭間で彷徨っている間だけは、時透の名を呼んだ。
 自分も呼び返したいが、彼女とはどんな関係で、どんな風にその名を口にしていたのか。
 どんな感情を込めて、音を乗せていたのか。
 それすらも思い出せないまま、それを実行するのは嫌だった。

 穏やかに持ち上がった瞼の下から、どこか遠くを見るような双眼が現れる。
 今彼女が見ているのは、自分であって、自分ではない。



「…無一郎くん、今日は、何かあった?」

「別に何もなかったよ」

「…天気は?」

「忘れた」

「…ご飯、食べた?」

「食べた、気がする。お腹も空いてないし」



 霧がかったようなモヤモヤした頭の中を、必死に手探る。
 ほんの少し紛れる苛立ちは、無意味な質問をしてくる雅に対してなのか、思い出せない己に対してなのか。



ーああ、日常はこんなにも煙のようにすり抜けていくのにー…、



「…無一郎くん?」

「なに」

「手、握って欲しいな」

「それをやる意義は全く分からないけど、いいよ」



 ぴょこぴょこ跳ねる指先に温度を重ねれば、じわりと熱が混ざった。
 熱さと冷たさが交わって、もはや相手が熱いのか己が熱いのかすら分からない。



「ーうん、大きくなったねぇ。もう男の子の手だ」



 ふふっと懐かしげに瞳を細める姿に、がつんがつんと何かが破壊される音がする。

 この陽だまりにも似た笑顔を、懐かしめない。
 一緒に想い出に浸りたいのに、比べるモノがない。
 一層のこと、総てを含めて忘れてしまえた方がどんなに楽だったか。

 部屋は明るいはずなのに、視界が暗くなっていく気がする。

 不意に、白い暖かさが頬に触れた。
 雅が身体の向きを変えて、もう片方の手をのばしてきたらしい。
 添えられるのは、ただただ透明な表情。



「…大丈夫だよ、無一郎くん。それは、消えないよ」

「ーうん、そうだといいね」



 主語もない、根拠もないその言葉に、ただ頷くしかない。

 するりと力尽きるように離れた指先を受け止めて、軽く己の額に触れさせた。
 祈りのような、願掛けのようなそれ。
 相手に熱があるからか、そこから高い温度が浸透してくる。
 このまま記憶も流れ込んではこないだろうか。

 ほぼ無意識的になされた己の行動に我にかえって、微かに首を傾げる。
 今度は深い眠りにはいったらしい雅を一瞥して、刺激しないようにそっとその手をおろした。








僕は君を忘れてしまったことを忘れられなかった


(何でもいい、手がかりが欲しい)
(もう一度、貴方の記憶によみがえれたならば。きっと伝えるから)


きっと夢の中。



お題配布元:花洩様


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