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心臓が赤い、なんて誰が決めたんだろうね?




 すりガラスに人影が映るのを見て、雅は台を拭く手を止めた。
 そういえばそろそろあの人が来る時間だ、と時計を確認する。
 ビンゴだった。

 ―ガラガラ。

 引き戸が開けられると、見慣れた中国服が見える。



「いらっしゃい、神威」



 雅が声を掛けると、暖簾を捲り上げて一人の少年が顔を出した。



「やあ。今空いてる?」

「見ての通り。分かってて店じまいの時間を選んでるんじゃないんですか?」

「まあね」



 神威は後ろ手で引き戸を閉めると店に入り、クスクス笑う雅の立つテーブルに着く。
 それからの彼女の行動は見事なものだった。
 調理場に入ると、その日の残り物で大量の料理を手早くこしらえていく。
 それを頬杖をついて眺めていた神威は不意に席を立つと、出来上がった料理を自然な動作でつまみ始めた。

 素朴だが、美味い。
 この味と量に魅力を感じて通いつめているのだ。
 いつも通りの味に満足そうに笑うと、もうひとつ、とエビフライに手を伸ばす。
 しかし、それは横からのびた菜箸に遮られた。

 柔かい声が耳を擽る。



「お手付きです」

「いいじゃないか、減るもんじゃないし」

「残念ながらこれは消費対象物ですね。これで仕上げですから」



 神威がその気になれば、ほんの少しの力を入れるだけでその手はエビフライに届くだろう。
 しかし彼は楽しそうに雅を見るだけで、大人しく動作を停止したまま待った。
 彼が見守る中で、雅は片手に持っていたタレをエビフライに掛ける。
 本日のメニューはエビフライ定食らしい。

 相変わらずの鮮やかな手付きに口笛を鳴らし、改めて割箸を手にとった。



「頂きます」

「どうぞ」



 雅の言葉を合図に、神威の持つ箸が忙しく働き始める。
 作った料理が次々と消えていくのを雅は嬉しそうに眺めた。
 いつもながら気持ちいいくらいの食べっぷりだ。

 こんなスマートな体にどうやって入っているのか疑問であるが。

 これだけ食べても太らないというのは、女の自分から見れば何とも羨ましい体質であった。
 しかし運動神経は見るからに良さそうであるし、身軽な服装からそれなりの運動を日々こなしているのだろうと結論づける。

 その口元にご飯粒がついているのに気付き、益々頬を弛めた。
 ご飯に関わる時の彼は、見た目より幼く感じる。



「ご飯粒、ついてます」



 神威がお代わりと空の茶碗を差し出した際に、茶碗を受け取ったのと逆の手をツイと伸ばすとご飯粒をとった。
 そのまま引っ込めようとするが、神威の手がそれを阻害する。
 パシリと掴んだ雅の手を口元まで引っ張ると、指先につくご飯粒を舐めとった。



「食い意地張ってますね…」



 やっぱり幼いです。
 おかしそうにクスクスと笑う雅に、神威は意外そうに目をパチクリさせた。



「動じないんだ?」

「まあこれくらいでは」

「残念、もっといいリアクション期待してたのに」



 つまんないの、と笑う神威に苦笑を溢す。
 とりあえず空いた茶碗にご飯を詰めてやらなければいけない。



「ちょっと待ってて下さいね」



 再びエビフライに手をつけ始めている神威に言葉をかけ、調理場に入ろうとしたその時、引き戸が音を立てた。
 一人の男が顔を出す。



「悪ぃな雅、ちょっと良いか?」



 20代くらいの若い男だ。
 神威はエビフライを咀嚼しながら二人が話すのを見ていた。
 雅に対しての呼び方から常連か知り合いであることは伺えたが、何となく面白くない。

 いつもならこの時間に来る客は、もう閉店だからと丁重に断るのを幾度となく見てきた。
 実際に、彼女がこんな時間に店に入れるのは神威だけだった。
 それにどことなく優越感を感じていたのは確かであった為に、今の状況は彼にとって不愉快なものでしかない。
 これ以上いたら、全てを滅茶苦茶にしてしまいそうだった。
 
 此処も彼女も、まだ失うには惜しい。

 ガリ。
 エビフライの尻尾を噛み砕くとお金を置き、音もたてずに席を立った。



「神威!?」



 流石と言うべきかいち早く気付いた雅が声を掛けるが、神威は振り返りもせずに足を進める。
 きっと、今の自分はこれ以上ないくらいの笑みを浮かべているのだろう。
 笑顔イコール殺意、なんて雅が知るはずもないが、今は彼女を視界に入れる気はなかった。



「ご馳走さま、今日は帰るよ」



 そう言い残し店を出ると、歩き出す。
 雅の性格は知っているから、何となく追ってくるのは分かっていた。
 それを分かった上で、一般人には追い付けるか追い付けないかのギリギリの速さで移動する。

 ちょっとした意地悪だ。



「ッ神威…!」



 やはり、来た。

 心の奥で嘲笑う。
 全速力で走り続けたのだろう。
 振り向かずとも、息を整える努力が伺えた。



「客をほって出てきていいのかい?」

「…神威だって客、ですよ」



 神威の雰囲気の違いを感じとっているのか、声に少しの震えを見つける。
 純粋な“気遣い”で恐れなんて感情は出ないはず。
 平和ボケした女だと思っていたが中々に敏感らしい。

 意外な一面に笑みを濃くすると、ここでやっと彼女の方を見た。
 暗い中でも、夜目が利く神威には関係なく蒼白な顔をした雅と目が合う。
 雰囲気に敏感なのは間違いないかった。

 自分の表情を見た瞬間にビクリと揺れた肩を確認し、確信する。



「俺が怖い?」



 間を空けて、しかし視線は反らさずに、苦しげな表情を浮かべて雅は微かに頷いた。



「ー、神威、私何か気に触るようなこと…」

「君は何もしてないさ」



 そう、彼女は何もしていない。

 失礼な態度をとったわけでもないし、料理が不味かったわけでもないのだ。
 ただ、雅が他の人間に取られるのを不快に思っただけ。
 ここで神威はふと疑問をもった。

 何故、そう思ったのか。

 ある結論が頭をかすめたが、まさか、とその考えを握り潰した。
 彼女は自分にとって、“食糧源として”大切な存在なのだ。
 無理矢理そう結論付けた。
 否、結論付けようと、した。

 その瞬間に、脳裏を横切ったものがあった。

 かつて夜王と呼ばれ恐れられた、同族の男。
 彼は一人の女を愛し、そしてそれを最後まで認めることはなかった。
 神威から見ればその姿は理解できず、また酷く滑稽であった。

 第三者からみれば今の自分も同じように映るのだろうか。
 笑顔を張り付けたまま、雅の方へ一歩踏み出す。

 ジャリ。

 地面を踏みつける音と同時に、雅の顔が恐怖に染まった。



「―!」



 それでも彼女は神威に背を向けることもしなければ、視線を反らすこともない。

 逃げたい衝動を必死に堪えているのは見てとれた。
 神威は無意識に心中でそっと息を吐く。
 もし雅が一歩でも自分から逃げる素振りを見せたならば、自分は間違いなく彼女を壊しただろう。
 
 他の人間に見せる笑顔など、必要ない。

 自分を映し怯える雅に、あの男に言われた言葉が蘇った。
 震える細い手首を掴む。


「ねえ雅、」








心臓が赤い、なんて誰が決めたんだろうね?


(怖い。でもきっとそれ以上に私は、)
(俺の心臓はきっと、真っ黒に染まっているのだろう)

キミ イト
君、愛シ。





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