寂しい想いをさせない約束だっただろ
◇
カタカタ。
キーボードの音が室内に反響する。
自室に閉じこもって三日目、ミヤビの体力は限界に達していた。
しかし、それももうすぐ終わりだ。
ラストスパートだとはやる指先の動きに合わせ、心音の脈打ちも速まる。
しかし、ふと覚えた違和感。
どうやら、この心臓の高鳴りは別のものを対象としているらしい。
ぞくぞくと背筋を駆け上がる悪寒に短く息を吐き出すと、ミヤビはゆっくり瞬いた。
「…どこから入ってきた不法侵入者」
ほんわりとした雰囲気はそのままに、春の日差しのような温かみを孕む声も健在。
ただ、紡がれる言葉はあまりに刺々しい。
大概の人間はそのミスマッチに己の聴覚と視覚を疑うことだろう。
しかし現在彼女の背後に佇む人影にとっては予想通りだったのか、ただ愉快そうに喉を慣らした。
「ククッ、あまり機嫌がよくないのかな?恋人に対してあんまりだ◆」
「生憎私には変態の知り合いはいないから。覚醒したまま寝言が言えるなんて凄いスキルだねストーカーさん?」
振り返るなり緩やかに表情を綻ばせるも、吐き出す言葉の毒は増す。
そのギャップも相まって常人ならば怖じ気づきそうなものだが、招かざる客人−ヒソカには悦びしか与えなかったらしい。
ニコニコと嬉しそうに瞳を細めてミヤビを見つめていたが、不意に頭を傾けた。
「んー?…何だかヒドく疲れているみたいだねえ。折角久しぶりに会えたのにそんなヘロヘロ状態じゃ張り合いがないじゃないか◆」
「疲れてるように見えるなら99パーセントはあなた関連かもしれない」
「成る程なるほど。その身体じゃボクの愛に対するリアクションもとれなさそうだ◆」
「話聞いて。愛とか要らないからとりあえず話だけは聞いて」
瞳の下の隈を目敏くも見つけたのだろう。
それをなぞるように肌を滑る指先を払いのける。
気に障るかとも思ったが、大して気にした様子もなく益々笑みを深めただけだった。
一体何が気に入られたのか。
いつの間にか部屋を訪れるようになった彼の素性は、名前以外無知に等しい。
ただ、ヒソカが現れる度に得体の知れない感覚が全身に纏わりつくのも事実で、一般人でないことだけは確信していた。
探るようなミヤビの視線の先、満足そうに頷く姿が映る。
「よし、予定変更だ。今日は一日、ボク自身をキミに捧げることにするよ◆」
「慎んで遠慮します」
「そんな寂しいことを言うなよ。折角の誕生日じゃないか◆」
「…、何で知っているのか聞きたくないけど聞いても?」
「奇術師に不可能はないからねえ◆お望みとあらば今日のキミの、」
「あ、もういいです黙っといて」
残念◆
軽く肩を竦めるヒソカに、ミヤビは胸を撫で下ろした。
間一髪。
第六感に従って遮ったのは恐らく正解だ。
あれ以上聞いていたら、今まで普通に送ってきた日常生活すら破壊されかねない。
とりあえず、まともに相手をしていては身が保たない気がする。
今は何よりも目の前の仕事をやり終えてしまうことが先決だ。
そう判断するなり、パソコン画面へと焦点を戻した。
もう一息、もう一息だから。
自分に暗示を掛けるように言い聞かせる。
「…あ、ともう一息…」
−しかし、徐々に視界が狭くなり始めた。
瞼が、手足が重い。
頭に重水が流し込まれたかのようだった。
自覚していたより、心身共にガタがきていたらしい。
ズルリと椅子から背中がずれるが、人工物とは異なる温度に触れた。
この場でそれを持つのは一人しかいない。
何を言うでもなく唇が動くが、音は生まれず空回った。
暗くなる意識が思考を邪魔する。
気が付けば、気怠さは浮遊感に変わっていた。
横抱きで運ばれているのか、ゆらゆら揺れる四肢。
嗅ぎ慣れた香りが鼻腔を擽る。
鉄分を少々含んだ、甘めの匂いだ。
そうだ、何度かこういう体験をしていた。
決まって、疲れた時に訪ねてくるから…−。
「…ミヤビ◆」
心地よさに朧気な中で呼ばれた名前。
海底へ沈む意識を叱咤し、現実へ繋がる水面を見上げる。
「−初めて出会った時に、ボクが伝えた言葉は覚えているかい?◆」
「−、…?」
ゆらり、ゆらゆら。
考えるより先に、ゆったりと水面が遠ざかっていった。
寂しい想いをさせない約束だっただろ
(…覚えがないです、勘違いでは?)
(やだなぁ、ボクがキミとのやり取りを忘れるわけないじゃないか◆)
すくって、すくった。
[ 13/19 ]