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彼女の知らない彼のこと





「…ん?」



 廊下を歩いていた小山内は、ふと足を止めた。
 テスト期間中の放課後だからか、生徒はみな早々に帰宅しており人気がない。
 そういう彼も、教師に頼まれた仕事を終えてあとは教室に寄って帰るつもりだった。

 ただ、大量の本を抱えてヨタヨタと歩く人影を目撃して素通りするには、彼にはスルースキルが足りなかった。



「…、」



 危なっかしいなオイ。


 小柄な女生徒だ。
 ちらりと見えた上履きの色から同学年であることは判断できたが、同じクラスではない。
 距離はあったが、あちらは亀並のスピードだった。

 足早に近付くと、揺れる黒髪に向かって声を落とす。



「大丈夫か?どこまで行くんだ?」

「え?…あ、図書室まで」

「よし、貸してみな」

「わ!?」



 返事を聞くなり、その細腕から本の山を五分の四ほど奪い去った。
 彼女の顔を隠していた壁が消え、一気に視界が開けたことに驚いたのか、めいいっぱい見開かれた双眼と視線がかち合う。



「…軽くなった」

うん、そりゃそうだろうな



 素直な感想にポロリと突っ込んだ。

 ぱちくりと瞬きを繰り返す彼女の腕には、四冊程度の束が残っている。
 その華奢な体格では一見するとそれだけでも重そうに感じるくらいだ。
 よくこれだけの量を運んできたもんだと半ば感心しながら、攫った本を抱え直す。



「図書室までだろ?手伝ってやるよ」

「ありがとう。もう少しで手が千切れるかと思ってた」

「おー。この量はひとりじゃツラいわな」

「神様みたいな人だね」

「ッハハ、荷物運びくらいで神かよ。大げさだな」



 何なら残りも持つから乗せろと申し出るが、それには首を振られたため仲良く肩を並べた。

 ころころ変わる表情にどことなく好感を抱きながら足を進めると、目的地に着いたらしい。
 踏み入った図書室は閑散としており、どうやら自分たちしかいないようだった。
 ふと視線を投げたカウンター側、ホワイトボードに図書当番の文字が見え、すぐ横に記載されている名前をなぞる。



「…飴凪雅?」

「はい?」

「やっぱお前か。図書委員ってテスト期間中も当番とかあんのか?」

「本当はお昼までなんだけど。今日やっておきたい仕事があったから先生にお願いして残らせてもらったんだよ」

「ふーん、熱心なこったな…」



 ずらしていた視線を何気なく雅へ戻すが、その先の光景に絶句した。



「オイオイ待てコラ動くな!」



 手に持っていた本たちを棚に返そうとしているのは明白だったが、チャレンジ精神が旺盛なのか。
 明らかに高い位置に無理やりねじ込もうとしているため、その段の本たちがぐらついている。
 数秒後には雪崩が起きることが容易に想像できた。

 反射的に声を荒げながら駆け寄ると、間一髪で今にも重力の流れに乗りそうな束を抑えつける。



「…あれ?」



 いきなり覆い被さった影に不思議そうにこちらを見上げてくる姿には、全く緊張感が感じられない。
 慌てすぎて壁ドン状態になっているが、ときめきを感じる心境ではなかった。



「あれじゃねーよ危なっかしいわ!上の状況見ろ頼むから!」

「ありがとう」

「おう!ついでに残りの本も全部よこしな!入れてやらぁ」

「神様」

「…ッブハ!お前の中で神様は一体何人いんだよ」



 雅の危機感のなさに感情が高ぶっていたはずだが、どうにも毒気が抜かれる。
 にこにこと嬉しそうに本を差し出してくる彼女に、曖昧な照れくささが入り交じってきた頃。

 ふと彼女のスカートのからぶら下がっているものに目がいった。
 ポケット内の携帯か定期入れの類についているのだろう。
 キーホルダー状のそれは割に大きく、透明な長方形が目を惹いた。

 小山内の視線に気付いた雅が、緩く口元を崩す。



「−…あ、“リオン”?」

「はあ!?」

「え、違った?」

「いや、違わねぇけど何でお前…」



 唐突に彼女の口から出てきた自分のファーストネームに、さすがに混乱した。
 彼女に名乗った覚えはないし、ましてや雅のような異性にいきなり名前呼びをされれば不覚にもドキリとはする。
 柄にもなく固まる小山内の様子に気付かない雅は、自分のペースで話を続けた。



「そういえば、部活で走ったりしてる?」

「あ、ああ。一応ゴルフ部だからな」

「それでだね、見たことあるような気がしてたんだ。よく学校周りまで散歩しにくるから」

「そうかよ」



 無邪気に笑う顔が気まずさで直視できず、不自然でない程度に焦点をずらして相づちを打つ。



「走るのは大体同じ時間帯だよね」

「ああ」

「じゃあまた散歩中にばったり会えるかもねえ」

「そうだな」

「嬉しい。見かけたら声かけてね」

「…おー」



 雅に意図はないのかもしれないが、満面の笑顔で向けられる内容としては、やや親密度が高い。
 会う人間全員にこんな態度をしていては、いつか危ない目に遭いそうだ。
 どことなく心配になってきて、ずらしていた視線を改めて雅に戻した。



「…飴凪、お前…」

「会えたらぜひ見てほしいな、可愛いんだよ“リオン”」

「いや、おう…ああ?」



 どう伝えるかと彼なりに悩んでいたのだが、何やら見逃せない矛盾の切れ端が通り過ぎて、はたりと動きを止める。
 それをどうとったのか、首を軽く傾げた雅がケラリと歯を見せた。



「え、人懐っこいから大丈夫だよ」

「いやそこじゃなくてだな。…すまねぇが多分話についていけてねえ。今してんのは何の話だ?」

「え?この写真の“リオン”に反応したんじゃなくて?」

「…犬」

「うん。可愛いでしょ?」

「……まあな」



 ポケットから出された定期入れ。
 目前に掲げられたキーホルダーには、何とも言えない表情でこちらを見上げるブルドック。
 透明に見えたそれは写真入れだったらしい。

 色々な想いが混ざりに交ざって頷くのがやっとだ。
 まあ別に困るわけでもないか、と複雑な気持ちに区切りをつけようとするが、目の前でキラキラ輝く笑顔が邪魔をした。



「もう世界で一番何が好きかって聞かれたら絶対“リオン”!」

「…、…」



 いややっぱめちゃくちゃ心臓に悪いわ。




彼女の知らない彼のこと


(あ、そういえば名前聞いてなかった。あとで聞こ)
(…なんも悪いことしてねーのにこの後ろめたさは一体何なんだ)


チェーン、つないだ。

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