キミの鼓動の色が知りたい
◇
舞台裏で、雅は身を潜めていた。
表舞台から聞こえる賑わいに、だんだん息が詰まってくる。
どのタイミングで飛び出すんだっけ?
耳を澄ませて、己の出番を復習し始めた。
練習の時と照らし合わせて、その間にも確実に詰められていく時間の距離に、脈打ちが大きくなる。
全身が心臓になったかのような感覚に、目眩すらした。
あ、これはダメなパターンだ、まずい。
何もかも投げ出したくなってその場にうずくまると、舞台のざわめきがより鮮明に雅の意識に迫った。
「…、っ」
何で自分だけこちら側からの登場なのだろう。
着いていこうかと心配してくれた裏方の友人の誘いを、その場の強がりで断ったことなんて、今更悔やんでもどうにもならない。
ぐちゃぐちゃにかき回された頭の中に耐えきれず、膝の上に置いた両手が固い拳を作った。
睨んだ床は薄暗さのせいで模様すら曖昧で、
−不意に、視界が陰る。
「−…飴凪さん、平気?」
「…、…え?」
突如降ってきた声は、すんなり耳に馴染みすぎて、一瞬何か分からなかった。
顔を上げて正体を確認して、やっと脳が理解する。
「あ、孤爪君…」
「うん。さっき、息止まってなかった?」
確かに彼の言うとおり、いつの間にやら呼吸を止めていたようだった。
声を出したことで酸素が回る。
隣席の同級生の姿にほっと息を吐いたのもつかの間、すぐに疑問が思考に被さった。
彼は裏方で、しかも自分以外の人間はみんな反対側の舞台裏に控えているはずだ。
「えっと…あれ、なんで…」
何か変更でもあったのか。
それとも出番前から何かミスでもしてしまっただろうか。
顔に全部出ていたらしい。
正確に雅の思考を汲んだ孤爪は、しゃがみ込んでいる彼女に目線を合わせるように両膝を折りたたんだ。
「別に何も…こっちの方が空いてるから来ただけ。人が多いのは苦手だ」
「そ…っか」
そういえば、そうだった。
孤爪とは中々仲良くさせてもらっているが、自分から誰かに話しかけたり、輪に入ったりといった姿は見かけない。
時々、部活仲間だとか幼なじみだとかいった人がクラスを尋ねては彼をどこかへ引っ張っていくが、それくらいだろうか。
そこまで考えるが、やはり無意識に侵入してくる音は雅を逃がしてはくれないようで。
舞台からのひときわ目立った言葉と効果音に、意図せず肩を揺らした。
ますます近づく出番に、世界が遠くなる。
唯一意識に居残るのは、目の前の彼だけだ。
自分と同じように膝を抱え込むような体勢の彼が、微かに首を傾げた。
「…だいぶ、混乱してるね」
「いやあの、うん。ちょっと、ていうかかなり…あがり症、みたいで」
昔からの悩みだ。
授業中に教科書を音読するだとか、教師に質問しにいくだとか。
そんな些細なことで、心臓はうるさく脈打つ。
他人より少し強いであろうその症状たちは、日常内レベルであれば何とか自力で乗り切れた。
しかし本日、今までは運良く逃れてきていた晴れやかな表舞台ということで、緊張はいつもの比ではない。
一段とひどいそれを誤魔化すだけの余裕は残っていない。
「私…人前、ほんとダメなんだよね」
困ったようにニヘリと笑うと、のぞき込むように傾いていた首が中間位に戻った。
「−知ってる」
当然のように細胞に吸収された音。
理解した時には、空気は動いた後だった。
「…ん?え、」
驚いたような己の声が、自身の耳の中で反響する。
頬の横、こめかみまで届く温度が耳元を覆っていた。
意外に大きく感じるその手は、紛れもなく彼のもの。
想像通りの低めの体温も、紛れもない彼のもの。
決して強く塞がれているわけではないのに、世界の一切の音が消えた。
聴くのは、自分のやけに大きい心臓の音だけ。
見えるのは、普段は伏せがちな、猫のような双眼だけ。
あまり真正面から見る機会は少ないが、全てを静かに見透かすようなその瞳が雅は好きだった。
視線が絡んだのは初めのほんの一瞬で、すぐにいつものように反らされてしまったけれど。
彼が見られるのを好まない事も知っているため、それに倣って異なる方向を見たり、目を瞑ってみたりした。
ドクン、どくん…。
そのまま、どれくらいの時間を過ごしたのか。
…とくん、トクン。
いつの間にか、随分と落ち着いた左胸の鼓動。
それを感じ取ったのか、前触れもなくするりと離れた温度に、名残惜しさを隠せなかった。
「…耳元、暖かかったのに」
拗ねたようにため息を漏らすが、彼の目線はこちらを向かない。
代わりに、今になって先ほどの行動の解説がなされた。
「…飴凪さんは、多分、こういう場面では周りの音は聞かない方がいいんだと思う」
「なるほど、だから耳を塞いでくれたんだ。でもそれなら自分でも…」
「さっきみたいな状態の時は、動くのに時間がかかるから」
「ああハイ確かに」
それは、雅自身も大いに納得できる。
彼女の場合、一度頭が真っ白になってしまえば、脳は指令を出せず完全にフリーズするのが常だ。
学校生活内でも、結構やらかした記憶がある。
今のように、何かきっかけがあれば行動を開始できるのだが、−。
『…ごめん、手がすべった』
『−ううん、はい。かどっちょ丸くなってるからよく転がるんだね』
『ありがと。…当たるのは多分三行目からだと思う』
『うん!?』
『珍しいね、それ。寝ぐせ…?』
『え!?ちが…っこれはこういう髪型で!…寝ぐせに見える?』
『おれがそう見えるだけだし、違うならいいんじゃない。…先生出てきたけど』
『あ、ほんと!』
「…、…あれ?」
−そういえば、いつもその“きっかけ”となるのは…−。
「…飴凪さん、」
不意打ちの呼びかけに、深く思考の海に沈んでいた意識が引っ張りあげられた。
「−はい?」
「ちなみに、あと十秒くらいで出番」
「おう!?うそ!」
がばりと立ち上がり耳を澄ますと、確かに覚えのある台詞が行き交っている。
練習時も死ぬほど緊張した場面だ。
思わず心臓を抑えるが、隣の存在を思い出してちらりと視線を落とした。
屈み込んだままの彼がこちらを見上げるように顔を挙げ、
−ほんの少し、笑った。
「…いってらっしゃい」
「!」
きゅん。
今までとは違う意味で跳ね上がった左胸の鼓動で、しっかり自覚する。
ひとり頷いて、満面笑顔で黒髪を翻した。
「−いってきます」
キミの鼓動の色が知りたい
(これからは違う緊張とも付き合うことになりそう)
(他の人よりちょっとだけよく分かるから。少しくらいなら、支えになれる)
とくとく、キミ徳。
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