どうせなら口付けで殺して
◇
くらり、クラリ。
ティキはどうしようもない眩暈に襲われていた。
目の前の現実に、脳の処理が追いつかない。
頭がどうにかなりそうだった。
茫然と、視界に入るその光景を見つめる。
「っ大丈夫ですか!?しっかり…!」
今日もいつも通りの筈だったのだ。
いつも通りイノセンスの破壊に駆り出されて、居合わせたエクソシスト待ちのファインダーには適当に倒れて貰って。
あとはイノセンスを破壊してしまえば、本日も平和に終わる筈だった。
なのに、なのに何故−。
壊す寸前に飛び込んできた人影。
エクソシストだと認識するのに時間は必要なかった。
見覚えのないシルエットに、一族との雑談の中でぼんやりと聞き流した、最近エクソシストが一人増えたという話が頭をよぎる。
通常なら一瞬で始末できたものを、思い留まった理由。
ティキの動きと思考回路を奪ったのは、視界にちらついた髪色だった。
青みのかかった、深い漆黒。
重なる記憶。
『つくづく思っけどよ、ミヤビの髪って綺麗な色だよなあ』
『え、ほんと?』
『ああ、確かに。オマエもそう思うだろティキ』
『おー。こりゃ、オレが見てきた黒髪の中でも一番だな』
『っありがと、嬉しい。みんながそう言ってくれるなら伸ばしてみようかな』
照れたように、はにかむ笑顔が脳裏にこびりついた。
下町の人間とよく絡んでいた時期、最も近くにいた女性。
いつだって穏やかに楽しそうに微笑んで、彼女を慕う人間は沢山いた。
アレン・ウォーカーとの戦闘で傷を負ってからは、彼らとは会っていなかった。
忘れていたわけではない。
寧ろ、…−。
現実感の薄れる世界で、不意に、瀕死状態のファインダーへと向けられていた彼女の顔があがった。
「−…、っ」
絡まる視線。
記憶と同じ面影に、疑惑は確信へと変わる。
ナンデ オマエガ ココニイル。
困惑に渦巻く意識の中で、ミヤビの瞳が見開かれた。
唇が動くのが、スローモーションで脳に届く。
「…−ティキ…?」
「!」
息が詰まった。
今の姿は、ノア本来の姿だ。
彼女達といた時とは似ても似つかない。
分かるはずが、ない。
しかし、あの時と変わらぬ声で、あの頃と同じ響きで、ミヤビは確かに自分の名を口にしたのだ。
「…ティキ」
二度目は、言い切った。
彼女は確信していた。
愛しさと悲しみを交えたその声に、縋り付きたくなるのを堪える。
「…確かにオレはティキだけど、キミとは初対面じゃない?」
「っ嘘!私が貴方を間違えるわけないでしょ!っなんでティキが…!」
涙を携えて声を張り上げるミヤビを瞳に映すなり、そっと息を吐いた。
―なんで?それは、
「−それは、こっちのセリフだろ…ミヤビ」
「っ…!」
パタリ、と彼女の瞳から頬を伝った涙が地面に落ちるのを見届けると、ティキは無言で微笑んだ。
静かに静かに、音もなく近寄る。
何かに懸命に耐えるように眉を寄せたミヤビは、ファインダーの身体をそっと地面に寝かせて立ち上がった。
「なあ、何でお前がこんなとこにいるわけ?」
イーズ達と一緒に、幸せにやってるハズだろ?
争いを好まないお前が何で。
血なんて一番似合わねェお前が何で。
こんな場所に、そんな格好で、そんなモン持って、このタイミングで。
「何でだろうな、ホント…」
いつか仲間と褒めた、漆黒の髪に手を伸ばす。
くしゃり。
触れると同時にミヤビの強張りが綻び、ふわりと笑みが零れた。
触り心地も撫で心地も、彼女の笑顔も、何一つ変わりはなかった。
まるで無抵抗なミヤビに複雑そうに笑いかけると、ティキはその華奢な身体に腕を回す。
抱き締めたことなど、一度もなかった。
戦いたくはない。
傷付けたくない。
失いたくない。
しかし、ここで見逃したとしても、いつかはまた戦うべき時が来るだろう。
下手をすればAKUMAや他のノアの手に掛かって命を落とすかもしれない。
イノセンスだけを壊しても、一度関わった以上、きっと彼女が無事に過ごせる保証などないのだ。
何より、もうミヤビを敵地になど返したくなかった。
他の奴に触れられるくらいなら。
他の奴に壊されるくらいなら、いっそのこと…−。
まわす腕に力がこもる。
「…ティ」
「オレに壊されろよ、ミヤビ」
耳元で低く低く囁かれた言葉は色々な感情が入り混じっていて、ただただ泣きたくなった。
顔を上げたミヤビは控え目にティキの頬に手をのばすと、涙を浮かべたまま、花のように微笑む。
「−いいよ」
その愛しさに溢れた音が鼓膜を揺らすと同時に、首に回された彼女の両腕に引き寄せられた。
唇に触れた不意打ちの温度に、少しだけ驚く。
−普通、オレの役割だと思うんだけどね。
吹っ切れたように口元を緩めて、さらに強く抱き寄せた。
どうせなら口付けで殺して
(ごめんなさい、本当は世界なんてどうでもよかったの。貴方がいなくなった時点で、私の幸せは何処かへ消えてた)
(初めは、ただ幸せでいてほしかった。けどもう、誰にも触らせる気はない。手放す必要はなくなった)
世界を捨てた、くしゃくしゃポイ。
(お題提供元:この世は夢よ、ただ狂へ!様)
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