熱い薬指の理由 ◇ 「っ…いた」 一拍置いて斜めに走った赤い線に、雅はそっと溜め息をついた。 書類を捲る手をとめ、常備している絆創膏を取り出す。 本日は左手の薬指だ。 やっと人差し指の絆創膏がとれたところだったのに。 やれやれと睫毛を伏せて、でたゴミをくしゃりと握った。 大人しく真面目な性格のお陰で教師から色々頼み事をされる彼女は、何かと書類を扱う機会が多い。 ノロノロと時間をかけるのを嫌うため流れ動作で済ませていく結果、紙で指を切るなどしょっちゅうだ。 浅いとはいえ、地味に痛い。 今となっては必需品となった絆創膏を眺めながら肩を落とすと、ガラリと生徒会室の扉が開いた。 「おう、やっとるのぅ」 「仁王君…、」 相変わらず掴みどころのない笑顔で入ってきたクラスメートに慌てて姿勢を正す。 そんな様子にクツクツと喉を鳴らした仁王は、グルリと室内を見渡した。 笑われた気恥ずかしさに軽く頬を染めながら、それを隠すように唇を開く。 彼がここに訪れる目的なんて一つしか思いつかない。 「えと、柳生君かな?」 自分と同じ生徒会のメンバーで仁王の部活のパートナーでもある人物の名を挙げれば、唇の端を釣り上げた彼と視線が絡んだ。 「ご名答。この時間はここにいると聞いてたんだがな」 「柳生君は先生にできた書類提出しに行ってくれてるの。もう少ししたら帰ってくると思うけど…」 「そうか、じゃあ暫く待たせてもらおうかの」 「あ、どうぞ」 当たり前のように隣の席に腰を下ろした仁王に少し吃驚するものの、すぐにやんわりと笑んで手元に焦点を戻す。 作業を再開させようとするが、どうしても気になることがひとつ。 「…」 「…」 「…、あの、仁王君」 「ん?」 「さすがにそんなに見られると仕事やりにくい、かな」 横から感じる視線に苦笑を零しながら顔を挙げれば、やはり頬杖をつきながらじっとこちらを見つめる仁王が映った。 そわそわと落ち着かない雅に対しフッと口元を緩めると、すまんと一言落としてから後ろに携える銀のおっぽを揺らす。 「お前さん、また切ったんか」 「え?あ、」 主語がなくとも、それが指を示すことは明らかだ。 反射的に隠すように左の薬指を覆う。 “また”という口振りから察するに、これが日常茶飯事になっているところは知られているらしい。 彼が『なりきり』を得意とすることは雅の耳にも入っているし、観察眼があることも普段の様子を窺っていれば明らかだ。 何となく居心地の悪さを感じて動けずにいると、折り畳み式の椅子がキシリと鳴いた。 「まだ余分に持っとるか?」 反応できず一瞬呆けるが、それ、と指さされて絆創膏を求めていることにたどり着く。 「あるけど…、え、どこか怪我したの!?」 「そう焦んなさんな。大したもんでもないんだが、さっき本を読んでいた時にちと切ったんでな」 「あー…紙は痛いよね。ちょっと待ってね」 紙の与える地味な痛みはよく分かる。 あせあせと絆創膏を取り出して、彼に差し出した。 「どうぞ」 「…、」 「…?仁王君?」 しかし彼がその絆創膏を受け取る様子はなく、動きが見られないことに疑問符を浮かべる。 差し出した絆創膏は無地であるし、男子が躊躇するような可愛い模様が入っているわけでもない。 緩く前髪を揺らした雅に対し、仁王は困ったように眉を下げて微笑んだ。 「悪いが貼ってくれんか。怪我したのが利き手なもんで貼りにくい」 「あ、そうなんだ。いいよ、手出して?」 「ん」 「仁王くん左利きだったんだね…、…あ」 絆創膏を包みから出しながら差し出された左手を見た瞬間、その女子顔負けの白い肌に目を見張る暇もなく一点に視線が釘つけになる。 白さの中で強調される赤。 その斜めの線が入るのは、五本指の四本目だ。 自分と同じ位置への怪我に、偶然だとは言い聞かせながらも意識せずにはいられない。 「…、…」 ペタペタと手慣れた動作で作業を進めながらも、不可抗力で視界に入る自分の薬指の絆創膏が気になって仕方がない。 意味もなく視線をさまよわせながら手当てを終えると、自分の時と同じようにゴミをくしゃりと握った。 「ありがとさん。助かったぜよ」 「ううん、役にたててよかった。柳生君ももう少しで帰ってくると思うから」 視線はそのままに紙くずをいじっていると、ふと空気が揺れる。 無意識にその根元に目を向けた雅は固まった。 あまりに妖艶な表情に思考の全てが奪われる。 動けない彼女に構わずするりとその左手を攫った仁王は自然な仕草で顔を寄せ、次の瞬間−、 ―雅の薬指に、唇を落とした。 「っ…!?」 絆創膏の上から伝わる温度に、一気に集まる熱。 まるで指自体が心臓になったかのような錯覚に陥る。 触れる彼の手は冷たく、一層熱さを際立たせた。 重なる互いの薬指と絆創膏にクラクラする。 「に、仁王く…、」 自分がどんな顔をしているかも分からない。 働かない頭で必死に呼びかければ、何事もなかったかのように離れる温度。 少し名残惜しく思うのは、いきなり空気に晒された肌が寒さを感じたからか。 真っ赤な顔でぽけっと自分を見つめる雅に愉しげに唇を歪めると、ポンポンとその頭に手を乗せてから腰をあげる。 「まじないじゃ。−女じゃけ、怪我にはもう少し気を付けんしゃい」 耳元で囁かれた言葉がくすぐったくて、思わず肩を竦めた。 最後の台詞が妙に優しげな響きで脳に浸透する。 「!あ、ありがとう…!もう行くの?柳生君がまだ、」 「いや、柳生はもういい。また部活中に話すとするかのう」 「…?そっか。部活、頑張ってね」 「おう、お前さんもな」 ガラ。 彼が扉を開けた瞬間、二人だけだった空間に外の音が入り混じった。 それをどこか勿体無いと思う自分がいて、ブンブンと首を振る。 どこか機嫌よさげに去る後ろ姿を見守った。 熱い薬指の理由。 (暫くは外せそうに、ありません) (まあ今は形だけだがな。意識させるには充分ぜよ) ぺたりペタペタ、お揃い絆創膏。 ―廊下の角を曲がったところで、仁王は人影にスッと瞳を細めた。 「待たせたのう、やーぎゅ」 いつもの軽い調子に、壁にもたれていた柳生はため息混じりに本から顔を挙げる。 「その呼び方はやめたまえ。…彼女への用事は済みましたか?」 「ああ、お陰さんでな」 「それにしても仁王君、君が本を読んでいるとは知りませんでしたよ」 「なんじゃ、立ち聞きとは趣味が悪い」 「君ほどではないでしょう、たまたま戻った時に聞こえただけです。それよりもどんな本を読むのか気になりますね」 −相変わらず野暮なのかそうでないのか。 事情を察して生徒会室を後にしたであろうパートナーにほくそ笑むと、隣に並んで怠そうにその身を壁に預けた。 「読んどらん」 「読んでいない?」 思わず聞き返すが、伊達に彼の相棒を務めているわけではない。 すぐにそれらしい答えにたどり着くが、その内容には些か眉をひそめた。 呆れたように息を吐き出し、クイッと眼鏡を押し上げる。 「…怪我もペテン、ということですか。しかしどんな理由があろうとも女性を騙すのは感心しません。反省したまえ」 「プリッ」 なるほど反省の文字もありませんね。 これ以上何を言ってもこちらが肩透かしをくらうだけだ。 待たせている彼女にも申し訳ないと、本を閉じて生徒会室へ向かうべく足を踏み出す。 「では私はもうひと仕事してから部活に行きますので、失礼」 「−のう柳生、」 「?何か」 不意にかかる制止。 他人への必要以上の干渉を好まない彼の呼び掛けを珍しく感じながらも足を止めた。 「…呼んでみただけじゃ」 |