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バケツと水と体温が降った日







 不意に陰った視界に、財前は顔を上げた。



「ちょっと財前君、サボリ禁止」



 高くも低くもないサバサバした声が耳に届く。
 だるそうに首を捻れば、逆光の中、見慣れた黒髪がちらついた。



「またこんなとこで携帯なんか弄ってる。君が働かない分、他の子に負担がかかるんだよ」



 どこぞやの委員長のような台詞に、うんざりしたように息を吐く。
 勿論、この手のキャラに面倒くささを感じる輩はいるだろうが、財前の場合はそれとは少し異なった。
 ひとつ上のこの先輩の性格を想っての溜め息だ。

 彼女が指し示す“他の子”の意図を正確に汲むと、片手で器用に携帯を閉じる。



「力仕事なんてそこら辺の“男”に押し付けたらええんちゃいます?」

「生憎、我が校の“女の子”は頑張り屋さんが多くてね。分かる?男子がサボるとその分女の子に負担がかかるんだよ」



 腰に手を当てて言うや否や、ひょいと財前と同じ目線の位置まで屈み込む。
 顔を覗き込まれた瞬間ふわりと鼻腔を擽った香りに、無意識に顔を背けた。

 相変わらず心臓に悪い。



「あーはいはい、雅先輩のフェニミスト論はもう聞き飽きとるんで」

「女の子を大事にするのは当たり前でしょ!寧ろ男の義務だよ義務」



 先輩は女やろ。

 心中で鋭く突っ込みながらも、またムキになって言い返してくることなど目に見えているため口を噤む。
 尚も続く彼女の言葉に適当に相槌を打ちながら、軽く視線を流した。



「…あ、俺に構っとる暇ないんちゃいます?あの子、荷物落としそうッスわ」

「え?!」



 フラフラと覚束無い足取りで段ボールを抱える女生徒を指し示せば案の定、雅は慌てた素振りで腰を上げる。



「おわ!教えてくれてありがとっ、サボっちゃダメだよ!」

「まあほどほどに」

「もー…また見に来るからね」



 振り向きざまに釘をさすものの、既に背を向けている後輩に苦笑を零した。
 何だかんだで仕事に戻ってくれるのだろう。
 彼はそういう人間だ。
 その背中を見つめたのち、女生徒の元へと駆け付けてその荷物をナチュラルに手にする。

 兄四人と父と祖父。
 海外でバリバリ仕事をこなす母に変わって大事に育ててくれたのは、揃いも揃って紳士な家族だった。
 そんな彼女にとって女性が大切にされるのは当然で、彼女自身にもその信念は見事に反映された。

 今となっては周りも認めるフェニミストぶりを発揮している。



「ありがとう雅ちゃん」

「いいよ。優花は小柄なんだしもっと男子に頼っていいから!私にも声かけてね」

「ふふ、頼りにしてるねー」



 柔らかそうな茶髪を揺らして、甘く笑う。
 綿菓子のようなクラスメートの笑顔に和みながら、雅は瞳を細めた。

 やっぱり女の子は可愛い。

 真剣にそんな事を思うと同時に、羨ましくも感じる。
 彼女ほどの女の子らしさがあれば、恋愛にも悩まないかもしれない。
 淡々とした声、いつもの背中を想って、そっと苦笑を零した。

 標準に僅かに満たない自分よりも更に低い位置にある瞳に目線を合わせて、別れを告げる。



「じゃあ、あっち行ってくるね。また何かあったら呼んで…−、」



 言葉は最後まで続かなかった。

―パタリ。
 頬に冷たいモノを感じ反射的に上に視線を上げたその瞬間から、雅の身体は動いていた。

 ぐいっ。



「!?雅ちゃ…」



 小柄な女生徒を引き寄せるなり、その頭を抱えこむ。
 意味も分からずされるがままの友達には申し訳ないが、説明する余裕も時間もなかった。

 彼女が捉えた映像は、頭上のベランダ上で傾くバケツと、せわしく去る人影。
 恐らく不注意でぶつかってしまったのだろう。
 大体何故あんな不安定なところに水の入ったバケツが置いてあるのか。

 誤って女の子がびしょぬれになったらどうするんだ。
 私の身体じゃ庇いきれないかもしれない。
 貸せるジャージは持っていたっけ?

 焦っているはずなのに酷く冷静に思考を巡らす脳。
 ハイテクな人間の仕組みに感動を覚えながら、無感動に地面を見つめた。
 まずくるであろうバケツの衝撃に備えて、回す手に力を込める。



「っ…、」



 ガコッ。

 “聴覚”が認識する、鈍い振動。



「…え?」



 鼓膜にしか届かなかった衝撃、新たに視覚と温覚触覚が伝えた情報に、雅の瞳が瞬いた。

 陰った視界。
 背中と肩に感じる温度。
 少し冷たい手。

 姿は確認できなくとも、それが誰のものであるかは明確だった。



−触れたことなどなかった。
 ただ喋って、笑って、視線を交えてきただけの仲だ。
 しかし伊達に彼を見てきたわけでは、ない。



「−…財前、くん?」



 背後から覆い被さる陰に声を絞り出すが、うまく音にならなかった。
 呆れたような溜め息が耳元を擽る。

 いつもより低めの音が、空気を伝った。



「−…、阿呆やろ先輩」



 ところところでじわじわと伝わる体温は、財前の身体が濡れていることを示している。
 彼が弾き飛ばしたのだろう。
 カラカラという音と共に視界の端に足下に転がるバケツを捉え、庇われて水を被っていないはずの身体から温度が奪われる気がした。

 彼がテニス部で、二年生ながら三年生に混じって公式試合に出る程の実力者であることは知っている。
 怪我などさせるわけには、いかなかったのに。

 震える唇を噛み締めて、軽く頭を振った。
 今は後悔よりも腕の確認と着替えさせることが優先だ。

 顔を蒼白にして財前の方に向き直ろうとするが、それより先にソプラノが空気を裂いた。



「あ、あの、財前君…だったよね?庇ってくれてありがとう。だいぶ濡れちゃったね、私タオル持ってるから…」



 雅の陰からひょっこりと顔を出した女生徒がそわそわと財前を見つめる。
 元々端正な顔立ちの彼のことだ。
 そこら辺の女性の気を惹くには充分の魅力を備えていることは分かっていた。
 頬を染めて可愛らしく前髪を揺らす彼女に、雅は眩しそうに俯く。

 自分の出る幕ではないのかもしれない。

 ゆるゆると背中から体温が離れ、それをどこか名残惜しく感じていると、彼の口からいつもよりも抑揚のない音が流れ出る。
 雅にではなく、真っ直ぐ女生徒に向けられる、感情のこもらない声。



「…礼言う相手がちゃうんちゃいますか」

「!」

「ちょ、財前君!?」



 あんまりな態度に思わず振り返るが、やはり既に背を向けて歩き始めていた。
 スタスタと遠ざかる黒髪に、胸が騒ぐ。



「ごめん、やっぱちょっと濡れちゃったね。しっかり拭いてから作業に戻った方がいいよ」



 少し抜けるけどごめんね!

 固まっているクラスメートにハンカチを手渡して、断りをいれてから同じく背を向けた。
 その背中を追ってひたすら走る。



「っ財前君!」



 人通りのない水飲み場。
 やっとの思いで追いつき腕を掴むと、財前の足も止まった。
 振り払われる覚悟もしていたが、彼が動く様子はない。



「濡らしちゃってごめん。助けてくれてありがとね。でも、さっきの言い方は…」

「女に対して失礼、言うんやろ?」



 いきなり遮った言葉に瞬間的に押し黙った。
 先程も感じた違和感に、財前の腕を掴む指先が緩む。
 いつもの彼と、違う。

 独特の余裕が感じられず、切羽詰まったような、怒ったような響きを残した。



「−ええ加減、自分も女やって自覚もって下さいよ」

「!」



 不意に振り返った財前に逆に腕を掴まれ、呼吸が止まる。
 頭を引き寄せる手も、触れる肩口の体温も先程よりも冷えているのに、酷く熱い。

 ぱたり。

 ぱたぱたと彼の髪から滴り落ちた雫が頬や肩で跳ねた。
 考えていたよりもずっと熱い温度に、眩暈がする。



「俺にとっての女は先輩しかおらん」

「っざいぜ、」

「先輩やなかったらここまで身体張らんッスわ」



 回される腕に一層力がこもったのを感じとり、何故か目元に熱が集中した。
 それに気付いた財前が少し驚いたように呟く。



「…ここは泣くとこちゃうと思いますけど」

「うん、私もそう思う」

「どっちか言うと感動してほしいっちゅうか」

「うん、感動してるよ」

「…そもそも告白しとるんやけど気付いてはります?」

「財前君って私のこと好きだったの?」

「…」



 だからそう言うとるやん。

 いつにも増した無茶ぶりに怒りを覚えたことも、勢い余って告白してしまったことも。
 全てが急に馬鹿らしくなって力を緩めると、自由になった雅にするりと腕を絡め捕られた。



「そうだ、腕は無事!?どこも痛めてない…?」



 さっきの涙はどこに行ったのか。
 眉をひそめて真剣に腕の状態を診始めた雅に、拍子抜けしたように口元を緩める。

 自分から落ちた滴だろう。
 濡れた彼女の頬に気付くと、手を伸ばしてその雫を拭きとってやった。
 擽ったそうに片目を瞑る姿に唇の端を釣り上げて、そのまま辿りついた髪に指を絡ませて弄ぶ。


「気にせんといて下さい。責任はしっかりとってもらうんで」

「…え?」



 今まで見たことのないほどの愉しげな表情に、雅の第六感が警報を鳴らした。








バケツと水と体温が降った日。


(あ、あの子転びそう…!)
(人の話聞いとりました?)


ぽたぽた、きらきら。