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赤い糸は決まっていた





 コンコン。
 鈍い振動が空気を伝い、雅はゆっくり顔を上げた。



「…どうぞ」

「ー、失礼しますわ」



 感情とボリュームを抑えた返事をするなり、無遠慮に扉が開く。
 黒髪の青年が銀の御盆を片手に足を踏み入れ、その淡々とした執事ー財前光を横目で見るなり軽く唇を噛んだ。



「気分のほうはどうですか?一応薬と飲みもんお持ちしましたけど、」

「…」

「飲みます?薬」



 窓際で沈黙を守る雅に、表情を変えるでもなく歩み寄る。



「寝とらんでええんですか」

「…、」

「はあ…大事な身体なんやから無茶せんと、横になった方がええですよ」



 ノーリアクションを突き通す雅に痺れを切らしたのか、呆れたような溜息が胸をえぐった。

 御盆を適当な台に置いた財前はそのまま近づくが、数歩手前で足を止める。
 彼がそこから動く様子はみられず、いつも通りの距離感にそっと俯いた。
 ぱらりと落ちた黒髪が、雅の顔を隠す。



「…よく言うよ。私の仮病くらい、あなたに見抜けないはずないでしょ、財前」

「なんや仮病やったんですか。心配して損しましたわ」

「嘘吐き。心配なんてこれっぽっちもしてないくせに」

「今日はえらい機嫌悪いんちゃいます?そんな顔してはったら折角の祝いの日が台無しや」

「気のせいだよ。今日だって、何もめでたくもない」



 たかが誕生日でしょ。

 素っ気なく吐き捨てて、手に触れたカーテンを握り締めた。
 例えば今から暴れてこのカーテンをぐちゃぐちゃにしたとして、目の前の彼の態度を崩すことなど不可能だろう。
 「無駄な仕事増やさんといてくださいよ」なんて言いながら涼しい顔で対処してしまうに決まっている。

 所詮、彼にとっての自分は仕事の一部的な存在でしかないのだ。
 毎日のように実感しては言い聞かせて。
 分かりきっていることなのに、今まで上手に抑えてきたはずの感情が今日に限ってコントロールを失っていた。

 急速にぼやけた視界を堪能する間もなく、パタパタと窓際に水滴が弾ける。
 雅が自分の涙だと認識する前に、背後の気配が息を呑んだ。
 さすが、距離は保ちながらも異変の察知は一流だ。
 幼い頃から両親が一人娘を任せるわけである。

 珍しく動揺したのか、一拍置いて掠れた音が纏わり付いた。



「…な、に…何で、泣いとるんですか」

「泣いてない」

「いやどう見ても泣いとりますけど」

「汗だから平気、下がって」

「無理ッスわ。それホンマに汗やったら医者呼ぶレベルですよ。医者呼んでええんですね」

「ごめん汗は嘘。目にゴミ入った」

「診せて下さい」

「っ!?ちょ、」



 不意に手首を掴んだ温度に目を見開く。

 いつの間にこんなに距離を詰めていたのか。
 いつも必要以上に接触してこない、身分をわきまえた冷静な執事はそこにはいなかった。
 そのまま身体を反転させられ、顔を挙げるように顎先を捕らわれる。

 じっと落ちる視線に、目眩がした。



「っ財前!」

「…理由、教えてもらえます?」



 ゴミが入ったなんて言い訳は、やはり信じていないらしい。

 相変わらず率直で、オブラートに包むということもなければ遠回しな聞き方もしなかった。
 こんなに至近距離で彼の瞳と向き合ったことはない。
 そのまま見詰められていたらどうにかなってしまいそうで、その手を振り払って睨みつける。



「っ構わないでよ」

「構わんかったら仕事にならんのですけど」

「クビにでもなったらいいじゃない、どうせ辞めるんなら一緒でしょ!?」

「そない縁起でもないこと…、その話はどこから聞きはったんですか」

「…メイドさんが話してた」



 そう、恐らくこれが本日感情のコントロールがきかなくなっている一番の要因だ。

 毎年、財前と過ごす誕生日は楽しみにしていた。
 素っ気ない態度は変わらないが、誕生日を理由にずっと傍にいてもらえたからだ。
 「しゃーないッスわ」と微かに笑っては、地味な我が儘を全て叶えてくれる彼が好きだった。

 祝福なんて飽きるほど聞いてきたのに。
 いつの間にか、お祝いの言葉は彼に言われるのが一番嬉しくなっていた。



『ー聞いた?財前さんが辞めるんですって』

『ええ!?お嬢様があんなに懐いていらっしゃるのに…旦那様も引き留めるでしょう。なにか事情が?』

『詳しくは分からないのだけど、本人の申し出らしいわよ』

『まあ彼も年頃だし…、もしかしていい人がいるのかしらね』



 昨晩たまたま耳にしてしまった使用人達の会話に、浮かれていた気持ちが一気に冷める。
 全身から血の気が失せるような、冷たい何かが這い上がってくるような感覚。
 足が地面についていないような気すらして、立っていることもままならなくなった。

 結局眠れず朝から動く気力もなく、朝食も殆ど喉を通っていない。
 心配した両親が財前を寄越すのも、想像に容易かった。
 先程は仮病とは言ってみたが、端から見れば明らかに普段の健康状態ではないだろう。
 いっそこのまま寝込んでしまえば、少しでも彼を引き止める理由になるだろうか。

 通常運転なら考えないようなネガティブな思考に陥っていたが、ポツリと落ちた呟きに意識が引き戻される。



「…一体どこから洩れるんやか」



 気怠げに呟かれた言葉は明らかな肯定で、ほんの一握りでも縋りたかったデマだという希望を打ち崩した。

 堪らず財前の胸ぐらを掴むように服を引っ張る。
 絶望で頭の中が真っ赤に染まっていた。



「〜っ、財前のばか!なんで私には一言もないの!?」

「まさかとは思いますけど、それ聞いたから夜も寝不足で朝から食欲もなくて機嫌最悪やったとか?」

「…寝られなかったことはなんで、」



 朝食や機嫌は見ていれば分かるだろうが、寝不足に関してはクマができにくい体質だ。
 欠伸などもしていないし正直見抜かれていたことには驚いた。



「いや、ベッドのシワ的に。昔から寝られやん時に壁際に蹲る癖は変わらんみたいですね。朝食でこめかみ押すんもボンヤリすんのを誤魔化すためやと」

「っ…そこまで私のこと理解できるの…っ財前しか、いない、のに…!」



 淡々となされる指摘。
 己が思う以上に見てくれていた事実への嬉しさと、これからそれを失うであろう悲しみと、自分を捨てて去るのだという怒りがかき混ぜられて気持ち悪い。
 次の言葉が、出てこなかった。

 再び瞳に張る水の膜を何とか押さえ込もうと、彼の胸元を掴む自分の手を鋭い視線で射抜く。
 が、次の瞬間に耳に届いた情報に呆気にとられた。



「−アホやろ」

「…んん?」



 ぱちり。
 瞬いた拍子に波々溜まっていた水分がポロリと零れ落ちて、一気に視界がクリアになる。


 いや、今この人なんて言った?


 聞き慣れた声が聞き慣れない感情を交えて、聞いたことのない言葉遣いで何かを言ったような。
 きょとんと見上げれば、鮮明な世界で僅かに唇の両端を引き上げた財前と目線が絡む。
 ああ、大好きな彼の表情だ。

 現状も忘れて魅入っていると、掴まれた服もそのままに腕を挙げた財前の指先が目元の涙跡に触れた。



「こんな意地っ張りな泣き虫残してどこ行け言うんや」



 優しく肌を滑る温度に、手の力が抜けていく。
 いきなり消えた敬語も気にもならないくらいに、心が弾んだ。



「っ、じゃあ…」

「辞めるんはホンマですけど」

私の感動を返せ

「…、ひどい顔やな」



 一気にスンとなった雅に対し、財前は心底楽しそうに表情を崩す。

 不意打ちのそれに一瞬呼吸が止まるが、中々休ませてはもらえないらしい。
 ゆるりとした動きで己の胸元から雅の指先を外して、その手を包み込んだ。
 壊れ物を扱うような触れ方に耳が熱くなる。



「この関係がある限り、無茶なことはできへん。やから、辞めます」



 常に冷静沈着で、淡泊で、天才肌で、無駄な動きがなくて、的確な突っ込みをしてきて。
 日常では感じなかった、どこか熱を秘めた眼差しに身動きがとれなかった。

 引き寄せられたのではなく、あちらが近づいているのだと気付いた時には焦がれた音が直接耳孔に侵入する。



「辞めて、−奪いにくるんで」



 覚悟しながら待っとってくださいよ。

 もう泣くなとでも言うようにこめかみに唇を寄せてから、仕上げとばかりに握ったままの雅の手を引っ張って口付けた。
 手の平に感じる熱と擽ったさに、本日何度目か分からない涙目を実感する。



「…ちなみに、明日付で辞めて三日後には挨拶に来るんやけどな」

「は?」

「旦那様も奥様も快諾でしたわ」

「いやいやちょっと待ってね、今までの流れはどこに?」

「こっちはスムーズにいくように長年かけて計画たてとんのに、なんや勝手に盛りあがっとるんで」

私の葛藤と涙の意味よ



 身体を離すなり、どちらからともなく爆笑した。







赤い糸は決まっていた。


(そんな風に見てくれていたなんて、全然気付かなかった)
(外堀埋めるまで気付かれやん努力するに決まっとるやろ。プロ魂舐めやんといてくださいよ)


はさみ用無し、さようなら。




2021/08/09