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触れたら壊れてしまいそうで、今日もまた届かない指先









 ポタリ、パタリ。

 少女の手の甲に落ちる雫を、ただただ見つめた。
 そっと睫毛を伏せて音もなく涙を流すクラスメートの姿を、どうするでもなく瞳に映す。
 いつものことだ。

 途切れることなく白い頬を伝う透明な水。
 それを拭うような優しい指先など、生憎持ち合わせていない。

 静かに手元の書類に視線を戻した跡部に、真っ直ぐなソプラノが届いた。



「…跡部、」

「なんだ」

「明日の数学、なくして欲しい」

「アーン?無茶言うんじゃねぇよ。そんなもん教師に直接交渉しな」

「跡部の役立たず」

「ハッ!俺様にそんな口聞く女はお前くらいだぜ」



 顔も挙げずに、嘲笑とも感心ともとれる反応を返す。

 見なくとも分かっていた。
 軽い調子でそんなどうでもいい話題を持ち出す彼女の顔に表情はなく、その瞳は相も変わらず水を生産し続けている。
 悲しみの象徴で、濡れていることだろう。

 勿論、数学が嫌だとか、そんな理由の身体反応ではないことも理解していた。
 二人きりの生徒会室にはオレンジ色の夕陽が差し込み、何の感情も滲まない空気を染め上げる。
 時計の秒針ですら主張を躊躇するような、“無”を欲した雰囲気が、そこには満ちていた。 

 跡部だけが存在する空間に雅が滑り込み、瞳から水分を流し出す。
 跡部は隣でなされるその行為を認識しながらも、ただそこで呼吸する。

 これが、互いにとっての日常だった。



「ね、今日体育の時間に転んだんだよね」

「ほう、珍しいじゃねぇか」



 運動神経だけはいいのにな。

 視線は交わることはないものの、きっちり返ってくる返事に、雅は微かに前髪を揺らした。
 基本的に、跡部から言葉を発することはない。
 毎度いきなり現れては泣く自分を、黙って傍に置いてくれる。
 理由が気になるだろうに、どうしたなどと問うてくることもなく。
 ただ一緒に息をして、時間を過ごしてくれるだけ。

 それがどうしようもなく苦しくて、嬉しくて、申し訳なかった。



『…俺は仕事しにきただけだ、他人に干渉するつもりはねぇ。お前も用が済んだら帰れ』



 ひとりになれる所を求めて忍び込んだ、下校時間を過ぎた時間帯の生徒会室。

 予期なく鉢合わせした生徒会長は咎めることもなくそれだけ言って、取り出した書類に視線を落とした。
 涙を見ても一切動じず、背中を向けるなんて気遣いも全くない。
 本当に、ただそこで活動をしているだけ。
 視線など一度も絡まなかったし、音が生まれることもなかった。

 それが何だかとても不思議で、酷く居心地がよかった。

 あの時入ってきたのが彼でなければ、自分はきっと今頃この場所にはいないのだろう。
 ぼやける視界でスカートの柄を捉えながら、その裾をそっと持ち上げる。
 白い膝小僧が覗き、少し赤の滲んだ絆創膏がその存在を主張した。



「今もちょっと痛かったりする」

「お前のことだからな、どうせ見栄でも張って授業が終わるまで処置しなかったんだろうが」

「なに、跡部ってエスパー?」

「俺様に不可能はねぇんだよ」

「跡部のその自信は最早才能だよね」



 軽く笑いを含んだような声に耳を傾けながら、黙々と文字を追い続ける。
 今、彼女を視界に入れたところで、どうせ予想に反した情報など脳に届かないだろう。



−雅は、跡部には決して微笑まない。

 しかし、その理由も理解しているつもりだった。
 普段から笑顔を絶やさない彼女が、色々な苦悩を抱えていること。
 それ故、その笑顔が全て偽りであること。
 そして、そんな彼女が唯一心を赦した相手が、自分ではないこと。

 聡いが故に、跡部は総てを熟知していた。

 これから先、雅が素の笑顔を向けるのは、一生をかけても一人だけだ。
 他に見せる笑みは造りものに過ぎない。
 だからこそ、彼女は自分には“無理に”笑いかけたりしないのだと。
 真実を見抜いている跡部にわざわざ偽りを向けることが、どれだけ酷な事か、雅は自覚している。

 その変わり、どれだけ辛くても苦しくても悲しくても。
 彼女が跡部以外の前で涙を見せることはなかった。





ーブルル…



 不意に、微かな振動が空気を揺らした。

 微かと言っても、この空間に存在する二人の意識を奪うには充分だ。
 響き渡った音に反応したのは雅だった。
 視線で跡部に確認を取り、上着のポケットから出した携帯をとる。



「…ん、うん。分かった」



 短い応答。

 しかし、跡部は確信していた。
 彼女の瞳に、もう憂いの色はない。



ー…アイツか。



 携帯を閉じて席を立つ雅に対し、変わらず文字を追い続ける。 
 引き留める術など、知らなかった。
 そんな跡部に、いつもより弾んだ音が向けられる。



「ありがと、跡部」



 無意識に視点を合わせた雅の表情に、時が止まるような錯覚に陥る。

 ふわりと笑む柔らかなそれは、偽りもない、彼女本来のものだ。
 これから会うであろう、ただひとりに向けられる為のモノ。
 自分に対しての笑顔ではないと分かっていても、


―否。分かっているからこそ、酷く心を乱された。


 全てを押しのけてその腕を引きたくなる気持ちを抑える。
 行くなと、俺を見ろとこの腕に閉じ込めてしまえたなら、どれほど楽だろうか。
 このまま行かせれば、また傷付いて泣くことになるのは目に見えていた。

 それでも引き留めることができないのは、彼女の笑顔を想ってか、自分のプライドか、はたまた…−。



「−跡部?」



 そんなこと、考えるまでもない。

 自嘲ぎみに視界を閉ざすと、隣に戻ってくる気配。
 自分の様子に違和感を感じとったのか、心配そうに覗き込んでくる雅の頭を書類で軽く叩いた。



「バーカ」

「何よう…」



 少しムッとしたように口を結んだ彼女に、微かに口元を緩める。
 基本、雅が跡部に見せる表情といえば、眉ひとつ動かさない人形のような泣き顔だけだ。
 感情が伴う表情が向けられれば、それだけで満足だった。



「俺は忙しいんだよ。用があるならさっさと行ってこい」



 頭から書類を退けると、そこを庇うようにひと撫でした雅がやはり花のような笑みを零す。
 その笑顔を奪わないようにと、頑なに指先を握りしめた。







触れたら壊れてしまいそうで、今日もまた届かない指先


(せめて、その涙だけは守ってやるよ)
(ああ、出会いがもう少し早ければ…私はどれだけ幸せになれただろうか)


知らない温度、じわじわり。