◇
雲がゆっくり流れる青空、平和なお昼寝日和。
そんな日の屋上に、騒々しい音が一つ紛れ込んだ。
―バタンッ
「雲雀さーん!」
「…」
聞き慣れたソプラノに、雲雀は寝そべったままゆっくり目を開ける。
彼をこんなに軽々しく呼べるのは一人しかいない。
自分を覗き込む影に、眉を顰めて不機嫌そうに呟いた。
「煩い」
「え、雲雀さんにそんなこと言われたら照れちゃうじゃないですかー」
「…、早く退きなよ。咬み殺されたいの?」
睨んだってどうせ目の前の少女には通用しない。
「雲雀さんになら構いません!」
予想通り拳片手にキラキラと言い返してくる雅に、雲雀は黙って起き上がる。
今日は一体何の用なのだと視線をやると、待ってましたとばかりにパックが差し出された。
微かに、甘い匂いが鼻を掠める。
「調理実習でクッキー焼いたんです!どうぞ!」
ぱかりと開かれた中身を見て、雲雀は一言で切り捨てた。
「いらない」
「えぇ!?折角雲雀さんに食べて貰おうと思って持ってきたのにー…」
「嫌がらせかい?」
白い指でその中身を掴むと、口を尖らせる雅の目の前まで持ち上げる。
パラパラと、真っ黒な残骸が指の隙間から溢れ落ちた。
甘い匂いは、調理室にこもっていた彼女からのものだったらしい。
それを見た彼女は慌てたように身を乗り出す。
「やっぱりハンバーグの方がよかったですか!?」
「そういう問題じゃないよ」
「実は昨日作ったんですけど、あまりに出来が酷くてですね」
「…」
雲雀の視線が手元の炭へと戻る。
その出来が酷いハンバーグを持ってこなかったということは、自分に差し出すこれはまだ彼女からしたら成功品ということだ。
これ以上に酷いのか。
人の話を聞かないことよりも、こんなものを自分に食べさせようとしていることに腹が立ってきた。
そんな彼に気付いているのかいないのか、雅は続ける。
「クッキーも少し焦げてしまったんですけど、今回は一番上手く出来たんです!」
「自分で食べなよ」
「え、そんなこと言わずに」
落ち込む様子も見せずにズズイとパックを差し出す彼女を一別すると、フイと背を向け歩き始めた。
後ろから追いかけてくる足音が聞こえるが、どうこうする気はない。
そのままツカツカ進みいつも通り応接室を開けると、やはり続いて部屋に入る雅の姿があった。
そして当たり前のように雲雀の座った向かいのソファに腰を掛ける。
これもまた日常。
いつのまにやら自分の生活に紛れ込んでいる彼女に苛立ちは感じても、殺気は湧いてこなかった。
だから、ほおっておく。
目の前で嬉しそうにニコニコする雅に構わず、雲雀は書類に目を通し始めた。
「雲雀さん雲雀さん、紅茶入れてもいいですかー?」
「勝手にしなよ」
「やた!」
声を弾ませソファを離れる姿を視界の端で確認すると、再び書類に目を落とす。
―苛々、する。
文を瞳に映しても、全く脳まで届かない。
まだ一文字も頭に入っていない書類をテーブルに投げ出し、横になった。
蛍光灯の眩しさに目を細める。
ああ、苛々する。
中々音に敏感なのか振り返った雅が声を上げた。
「へ?寝ちゃうんですかー!?」
煩い。
彼女の声を遠くに聞きながら、雲雀は片腕で目を覆った。
◇
カチャカチャ、と金属が擦れ合うような音で意識が急速に引っ張り出された。
ぼんやりと目を開けるとまず腕の隙間から黄色い蛍光灯が目に入り、その見慣れた天井を見て此処が何処か認識する。
いつの間に寝たのだろうか。
まだ覚醒しない脳を無理矢理活動させようとする雲雀に、声が掛かった。
「あれ、もう起きたんですか?」
まだ幼さの抜けていない声が鼓膜を揺らす。
視線は天井に向けたまま言葉を吐き出した。
「…まだいたの?」
「雲雀さんの寝顔を逃す手はないでしょう!」
「そこにいなよ。もう少ししたら咬み殺しに行くから」
「えぇ!直々にですか!?」
いつもながら、何故そんなに嬉しそうな反応をするのか分からない。
痛いのが好きだとかそういうタイプなのだろうか。
ちらりと視線を動かすと、キラキラと笑う雅と目が合う。
―ああまただ。
どうしようもなくムカつく胸に、破壊衝動。
何処かで草食動物が群れたりしていないだろうか、なんて考える雲雀の思考なんて雅が分かるはずがない。
「紅茶入ったんでクッキー食べましょーよ」
テーブルに並べてあるのだろう。
紅茶の香りと、焦げた匂いが鼻につく。
苛々は募るばかりで、しかし彼女にはトンファを向けようという気にならないのも事実で。
それがまた苛立ちを大きくしているのだということには気付いているのだ。
それが分かっていながら何故彼女を近付けるのか、雲雀自身よく分かっていなかった。
黙り込む彼に、雅がやっと落ち込みを見せ始める。
「む〜そんなに食べたくないですか。だったらいーですもん」
さっきまでの笑顔はどこへやら。
頬を膨らませてプイとそっぽを向く雅に、何となく苛々が治まった気がしして、一つの結論に辿り着いた。
恐らく、雅の笑顔が駄目なのだ。
考えてみれば、雲雀は彼女の笑っている姿しか目にしたことがなかった。
自分を見てただ純粋に嬉しそうに笑う人間なんて、彼女が初めてだった。
だから慣れない対応にいらついたのだと、そう結論付ける。
しかし原因が追求出来たのも束の間だった。
「ツナ君達にあげてきますから!もう雲雀さんにはクッキーは持ってきません!」
その雅の一言で、折角出した答えが台無しになった。
ああ、やっぱりウルサイ。
いきなり暴れ出した心臓の音に、耳を切り落としたくなる。
彼女は笑顔ではないのに、苛々が戻ってきた。
彼女の言葉に反応したのであれば、勿論後半ではないだろう。
寧ろクッキーから解放されるなら喜ばしい限りだ。
だったら残されるのは前半部分。
何処に苛立ちを感じた?
考えることすらうっとうしくなって、雲雀はクッキーを持って扉に向かう雅を引き留める。
「待ちなよ」
「食べてくれる気になりましたか!?」
パアっと輝く顔に沸々と何かが沸き上がった。
しかし先程よりは煩くない心臓に、こちらの選択の方が正しいのだと悟る。
腕を目元から額へ移動させると、自分の方へ来るようにと促した。
「それ、味見は?」
「勿論しましたよ、途中段階では!」
「…完成品はしてないわけだね」
「雲雀さんと食べようと思って」
へにゃっと笑う雅に怒る気も失せる。
さあどうぞと差し出されるクッキーに手を伸ばした。
無造作に一つ口にほおり込む。
ガリ。
不快な音の後に口一杯に苦さが広がった。
傍らでは同時にクッキーを食べた雅が、苦!なんて叫んでいる。
味覚音痴なわけではないらしい。
そんな彼女相手でも、胸のムカつきは治まらなかった。
「僕は君が嫌いだよ」
「…え?」
雲雀は目を見開く雅を見て、初めて満足そうに笑う。
おもむろにその細い手首を掴むと、自分の方へと引っ張った。
クッキーが落ちる、音がした。
何よりも嫌いな君に、接吻を。
(僕をかきまわすから、壊すから)
(私は雲雀さん以上に愛せる人はいません!)
苦い、苦い。